俄雨に喜ぶ早苗

 

今日から五月、「皐月」ですね。「さつき」とは、早苗を植える時期で「早苗月」(さなえづき)が省略されて「さつき」となりました。他にもまだまだ色々な呼び方があり、「稲苗月」(いねなえづき)、「早稲月」(さいねづき)とも呼ばれていました。まさに緑一色の世界。そして、田植えが始まりました。早苗と言っても、まだまだ小さく、風になびく程ではありませんが、今日の午後から天気急変、雷雨となりましたが、早苗にとっては恵みの雨だったと思います。

| 17:43 | 投稿者 : ushiku |
交通の要衝も今は姿を変えて

 

一級河川小野川のすぐ脇を通る首都圏中央自動車連絡道、今年の2月26日全線開通しました。まだ対面交通が多いようですが、以前と比べ交通量は格段と増えています。そして、小野川ですが、今も静かに流れています。この小野川には遠い昔に遡ると、江戸時代8代将軍吉宗の時代には、物流の重要な要衝でした。戦国時代が終わり、世の中は平和になると、江戸に出れば仕事に有り付けるとばかり、出稼ぎが増え、江戸の人口は100万人を超えました。一都市で100万人とは世界でも類を見ない大都市となっていました。ここで、幕府の悩みの種はエネルギー問題でした。吉宗は、江戸を取り巻く周辺の村々に、「御林」(おはやし)を作るよう指示を出しました。御林とは、薪や炭にするための赤松の植林を命じたのです。赤松が育ち、出荷する段階になると、どうやって江戸に配送するのか。ここで考えられたのが水運でした。小野川から現在の稲敷市伊佐津まで田舟に似た「伝馬造茶船」(でんまつくりちゃぶね)で運び、伊佐津から高瀬舟に乗せて霞ヶ浦・利根川・関宿から江戸川・行徳から新川・小名木川を経て、大川(隅田川)まで運んでいました。江戸まで200km、9日間の船旅でした。この水運を「小野川水運」とか「小野川舟運」と呼びました。

| 17:56 | 投稿者 : ushiku |
新緑の雑木林にアクセント

 

雑木林の林床にショカッサイ(ムラサキハナナ)が新緑の林に映えていました。ここは、猪子町の道山古墳群です。ここは地元の人によって綺麗に整備され散策ができるように整備されています。このショカッサイは林床全体に生えているのではなく、林の周囲を囲むように林のアクセントになっています。見事なバランスです。(この場所は、国道408号、太田胃散の近くです)

| 19:33 | 投稿者 : ushiku |
伝馬造茶船が行き交う小野川の畔

 

小野川の水は今日も静かに流れていました。今から約202年前の文化10年、11代将軍徳川家斉の時代に、小野川は大きく注目されることになりました。更にここから遡ること100年前、8代将軍徳川吉宗の時代に、江戸の人口は急増し、100万都市として、エネルギー問題が大きな課題となりました。この時、幕府は江戸を取り巻く周辺の村々に「御林」(おはやし・アカマツ林)を造林し、アカマツを薪炭にして江戸直納を命じたのです。牛久市域も大半が御林になりました。それから100年が経過すると、御林のアカマツは大きく成長し、江戸に薪炭を収める時期がきました。これら薪炭を大量に運ぶ手段としては、水運が一番だったのです。そして、文化10年8月9日(1813)に牛久の村々の農民が幕府郡役所に申請していた「伝馬造茶船」(でんまつくりちゃぶね)の鑑札が下りたのでした。鑑札を受けた農民は、小野川に自家用の河岸を設け、伝馬造茶船に荷(薪炭・年貢米など)を乗せて、現稲敷市の「伊佐津河岸」まで運び、ここから高瀬舟に載せ替え、江戸まで運んだのでした。小野川の畔に立つと、当時の水運の苦労が忍ばれます。

| 19:52 | 投稿者 : ushiku |
間もなく錦秋の観音寺

 

久野町の古刹観音寺の紅葉が始まりました。イチョウは色づき、一部散りだしていますが、もう少し時間がかかりそうです。山門前のカエデの紅葉はうっすらと色づいてきましたが、此方ももう少し時間がかかりそうです。正面の山門(県指定文化財)の後ろにあるイチョウの巨木は樹齢300年(推定)と言われている市内でも有数のイチョウです。そのイチョウの葉が散り出すと、秋が終わります。イチョウの散り出す時期は12月に入ってからで、境内も山門前(写真)も黄金色に染まります。ここ数年、落葉の時期は遅れて、12月に入ってからです。地球温暖化の影響なのでしょうか?

| 18:35 | 投稿者 : ushiku |
年々遅れる紅葉の時期

 

久野町の古刹観音寺の紅葉はまだ時間がかかりそうです。ここはイチョウとカエデの紅葉(黄葉)は市内随一となっています。正面の山門(県指定文化財)の後ろにあるイチョウの巨木は樹齢300年(推定)と言われている市内でも有数のイチョウです。そのイチョウの葉が散り出すと、秋が終わります。イチョウの散り出す時期は12月に入ってからで、境内も山門前(写真)も黄金色に染まります。ここ数年、落葉の時期は遅れて、12月に入ってからです。地球温暖化の影響でしょうか?

| 20:08 | 投稿者 : ushiku |
古刹の曼珠沙華

 

お彼岸が過ぎて、彼岸花(曼珠沙華)が満開になっています。ここは、久野町にある威徳山福聚院観音寺です。本尊に十一面観音を祀る天台宗の古刹です。境内には、四季折々の花が咲き乱れ、6月の紫陽花の季節には歩くことが困難なほど咲き乱れます。また、新緑の季節や秋の彼岸花、そして、紅葉もとても優雅で幻想的な世界に入り込むことが可能です。

| 18:57 | 投稿者 : ushiku |
益々開ける牛久大仏周辺

 

桂町の稲敷台地から牛久大仏遠望。大仏の背後に無数のクレーンが。これは、牛久大仏の背後で進む、茨城県の工業団地(阿見町)の工場新設工事です。大仏の背後には阿見プレミアムアウトレットがあり、注目されるエリアです。ちなみに、牛久大仏は背中が阿見町で、大仏は牛久市久野町に立地しています。

| 20:49 | 投稿者 : ushiku |
ミステリーツアー無事終了

 

今日はミステリーツアー「鎌倉権五郎物語」です。午前9時オリエンテーションの後、奥野生涯学習センターをスタート。権五郎が敵の放った矢が目に刺さり、家来の三浦為継に引き抜かせた場所。血だらけの顔を清水で洗ったとされる「おみたらしの池」、血だらけになった「赤井橋」。引き抜いた矢を収めた「矢の根神社」。痛みと疲れで意識朦朧として登った「うつつ坂」。そして馬もろとも川に転落して命を落とした「桂川」。そして住民の手で守られている「権五郎の墓」。現在は新旧三基の墓石があります。墓地をお参りしたに後、権五郎の顕彰碑がある「金剛院」に立ち寄り、ご住職から寺の歴史などお話し頂きました。大変意義深い歴史ツアーは3時間で終了しました。(鎌倉権五郎の墓)

| 21:36 | 投稿者 : ushiku |
鎌倉権五郎景政の墓

 

久し振りに桂町の鎌倉権五郎景政墓にやってきました。明日のミステリーツアー「鎌倉権五郎」の下見です。今日は権五郎さんの墓をしっかり見てきました。鎌倉権五郎景政の遺跡が何故牛久にあるのか? その辺も含めてしっかり勉強しました。牛久の鎌倉権五郎景政は「伝承口碑」が最初に必ずつきます。要するに、言い伝えと言うことになるのでしょうか。全国に同じような逸話が沢山ありますが、牛久は「鎌倉権五郎終焉の地」として残されています。東京八王子にも「鎌倉権五郎終焉の地」の逸話が残されていますが、ここでは42才で亡くなっています。牛久は16才(1083)で没でした。牛久のお墓は三基残されていますが、一番古い墓石は、大正15年3月建立。二番目は昭和34年2月。写真の一番新しい墓石は、平成19年10月でした。地元の方は、鎌倉権五郎の遺跡を大切に守り、その歴史を後世に伝えようとしているようでした。

| 20:16 | 投稿者 : ushiku |