水田の定義が変わりそう

 

水田であったところがいつの間にか「蓮田」に変わっていました。水田というと稲作でしたが、その常識は覆されようとしています。

農林水産省の発表によれば、2018年度の日本の食糧自給率は37%(カロリーベースによる試算)と過去最低を記録しています。 これをおおまかに解釈すれば、日本で食べられているもののうち、37%が国内で生産されたもので、残りの63%は海外からの輸入に頼っているということになります。このままでいいのでしょうか。異常気象の頻発する昨今、食料自給率はもっと上げなくてはならないかと思います。この環境の急変は、農業従事者の高齢化も大きく影響しているのかもしれません。国は数字を示すだけでなく、農業の実態をもっと把握して、それに対する対応を考えてほしいと思います。

| 20:24 | 投稿者 : ushiku |
歴史の中に流れる小野川

 

ここは中根地区の小野川です。小野川は江戸時代中期ごろから、小野川水運で年貢米や薪炭の運搬に活気があった川でした。当時は物流の要衝でしたから、川幅ももっと広く、今とは異なっていたはずです。現在の川幅では、田舟も航行できないでしょう。それが、昭和に入ってから筑波研究学園都市ができたころ、つくば市の小野川(地名)で、稲荷川との分流が行われました。この分流のためかどうかはわかりませんが、稲荷川の水量は豊富。小野川は小川のようになってしまいました。写真右は国道468号(通称・圏央道)です。

| 16:40 | 投稿者 : ushiku |
拡大する耕作放棄地

 

牛久市内の耕作放棄が拡大しているような気がします。これまで青々としていた稲穂が、ヒメジョオン(貧乏草)に占拠された田畑は本当に寂しい感じがします。明らかに耕作放棄という感じです。写真は乙戸川沿いの水田ですが、昨年は青々とした稲が風のそよいでいたような気がします。これは牛久ばかりではなく、高齢化による要因が大きな社会問題となっています。

内閣府のホームページによりますと、以下のコメントがありました。農地面積は、主に宅地等への転用や荒廃農地の発生等により年々減少し、平成27年には449万6千ha。荒廃農地(客観ベース)の面積は、平成26年には27万6千haであり、そのうち再生利用可能なものが約半分の13万2 千ha。耕作放棄地(主観ベース)の面積は、年々増加し平成27年には42万3千ha。荒廃農地の発生原因は、「高齢化、労働力不足」が最も多く全体の23%、次いで「土地持ち非農家の増加」が16%、農産物価格の低迷が15%となっている。

国がここまで把握しているわけですから、もう少しスピードを上げて対処すべきと考えますが。

| 17:38 | 投稿者 : ushiku |
休耕地に広がるオオキンケイギクの脅威

 

北アメリカ原産の多年草「オオキンケイギク」が猛威をふるっています。市内ではひたち野うしく周辺がこの花に埋め尽くされていた時期がありましたが、ニュータウンの宅地化が進むにしたがって、減少しています。代わって市内各所でお花畑が拡大しています。この場所は小野川沿いの休耕地です。この花はもともと、ワイルドフラワー緑化としてニュータウンなどで、URによって播種されてきました。当時は合法でしたが、あまりにも旺盛な繁殖力で、生態系に影響を及ぼすことがわかると、環境省は平成18年(2006)に「特定外来生物」に指定し、生きたままの運搬や栽培、譲渡などが原則として禁止されました。そして、オオキンケイギクを繁茂させないようにするためには、種子を地面に落とさない、もしくは種子が付く前に駆除を行うことが重要とされます。オオキンケイギクは基本的に、生きたままの運搬が禁止されていますので、駆除を行う際には、根から抜いた個体を天日にさらして枯らす、または、袋に入れて腐らせるなどの処置をした後に移動させる必要があります。

| 16:22 | 投稿者 : ushiku |
低気圧の置き土産

 

今日は大荒れの一日でした。発達中の低気圧がゆっくりと北上し、東海から北日本にかけて強風と大雨をもたらしました。朝から雨、しかもコロナ自粛という辛い週末になったかと思います。この低気圧は午前9時に紀伊半島付近にありましたが、午後12時には浜松とゆっくりと進み、午後3時にはやっと栃木県足利市付近に到着。その間関東では強風雨で、屋根がめくられるほどの被害も出ました。3時過ぎには雨も小やみになり、4時過ぎには青空も見えてきました。そして、4時半、突然現れた虹です。はっきりと東の空にかかりました。しかし、移動中の低気圧の尻尾をバックにした部分ははっきりした虹でしたが、晴れている部分は虹が消えていました。久しぶりに見た、大空のページェントでした。この場所は、国道468号線(通称:圏央道)中根町付近です。

| 19:10 | 投稿者 : ushiku |
もう田植えの季節

 

柏田地区で田植えが始まりました。市内でも最も早いかもしれません。他の地区では、田起こしが終わり、農業用水を入れて、代掻きを待つばかりです。この時期田植えをすると、収穫は8月中旬になるでしょう。大型台風が次々にやってくる昨今ですから、一日も早いほうが良いかもしれません。ここは、上方の住宅地は上池台、その下が小野川です。

| 17:06 | 投稿者 : ushiku |
今や静かに流れる乙戸川

 

乙戸川は乙戸沼を水源として牛久の島田町先で小野川に合流する延長15キロメートルの一級河川です。かつて乙戸沼は水量が多く、付近は湿地帯だったため水害が多発していました。小さな川ですが、しばしば氾濫する荒れ川(今の乙戸川)が流れる地域の先の方(沖)という意味から地名が荒川沖となったようです。今の阿見町本郷区に集落があり、江戸初期に水戸道中(街道)が水害の多い地域を避けて整備されたことから、一部の人が街道沿いに移り住み、荒川沖として宿場に発展しました。乙戸川は小野川に注いでいますが、小野川はつくば市の洞峰公園の洞峰沼と同つくば市小野崎を水源として牛久市を西から東に流れ、稲敷市の古渡から霞ヶ浦に流入する一級河川です。小野川は乙戸川の他、桂川も支流となっており、江戸時代には江戸に年貢米や薪炭を運ぶ水運が開け、その水運は大正時代まで続きました。

| 19:57 | 投稿者 : ushiku |
忘れ去られていく民間信仰

 

今日は、島田町の公会堂で、歴史講座「幻の古道・鎌倉街道」を依頼され行ってきました。鎌倉街道とは、今から800年ほど前に源頼朝が金砂城に立てこもっていた、平氏の残党、佐竹氏を征伐するために進軍した古道で、牛久にも残されています。頼朝は鎌倉から海岸線を通る、「下ツ道」という鎌倉街道を通り、我孫子から利根町(当時下総の国)、竜ケ崎から牛久の島田台に入り、牛久村を通過しました。また、その後、鎌倉権五郎影正が八幡太郎義家の命を受けて奥州征伐「後三年の役」で勝利をおさめ鎌倉への帰途、現島田町の島田台に差し掛かった時、敵の兵に右目を撃ち抜かれたという逸話が残されています。その古道の歴史の話をさせていただきました。帰り際、鎌倉街道から50mほどのところに残されている「大日如来石仏及大日塚」を見てきました。その標識には「当大日如来石仏は寛永6年(1629)出羽三山湯殿山の、修験者が「時念仏」という民間信仰を布教のために建立したもので、御湯殿山御神体の胎蔵界大日像を刻み、殆ど大日塚の上に祀り、全国でも茨城県南地方にのみ見れれる。大日如来は仏教界最高の仏像で、また、真言宗の本尊でもある。此に「高福寺別当宝泉寺栄伝「本願」などの銘刻があり、庶民信仰の対象として五穀豊穣等祈願した。近世に念仏衆が大きな塔婆を囲み数珠を操り、百万遍念仏を唱え現生二世安楽を祈った」 平成3年3月1日 牛久市教育委員会 とありました。

| 20:14 | 投稿者 : ushiku |
神様の名を冠した橋

 

ここはひたち野牛久からすぐ隣の阿見町荒川本郷を流れる「乙戸川」に架かる「道祖神橋」です。この橋の南側には「北向道祖神」があり、地元の方々に大切に保存されています。そして、橋の名前に神様の名前を付けたのは珍しいと思います。道祖神とは、村落の辻や峠の境に祀られた路傍の神とされています。外来の邪悪なものをさえぎるという風に言われます。元は道教から生まれたという説もあるそうですが、神道やら仏教などさまざまな宗教に習合されなどして、実に身近な神として親しまれてきました。それ故、さえぎるという意味から広がり、厄除けや五穀豊穣、縁結びや安産と、いろいろな役割をになうようになった大変な神さまです。甲信越地方や関東地方に多く、とりわけ道祖神が多いとされる安曇野では、文字碑と双体像に大別され、庚申塔・二十三夜塔とともに祀られている場合が多いです。

| 18:17 | 投稿者 : ushiku |
207年前から生き続ける交通の要衝

 

ここは中根小学校下の農道から、南西側国道468号線を遠望しています。468号線と言いますと聞きなれない名前かと思われますが、この道路は「高規格自動車専用道路」といい、通称「首都圏中央自動車連絡道」、すなわち「圏央道」です。牛久市内には3本の国道が走っています。6号、408号、そして468号です。現在では重要な幹線道路になっていますが、その圏央道の下に一級河川小野川が流れています。小野川とはつくば市の小野崎と洞峰沼が水源となり、牛久市域を縦断し稲敷市の古渡まで36.45kmの一級河川です。この川は蛇行が激しく水深も浅かったため、大雨が降れば度々氾濫したそうです。現在は河川の改修がされているため、氾濫は無くなりました。この小野川には大きな歴史がありました。今を去ること207年前、文化10年(1813)に小野川水運という江戸までの水運による輸送手段がスタートしました。この年に小野川流域の農家28戸が、幕府郡役所に小野川通伝馬造茶船(でんまつくりちゃぶね)の鑑札を申請し受理されました。この時代は江戸の人口は増え続け、エネルギーの枯渇が大きな問題となっていました。そこで、江戸を取り巻く周辺の村々に幕府は官有林にアカマツを植栽し、薪と炭にして江戸直納を義務づけました。その輸送経路となったのが小野川でした。このルートを「小野川水運」と呼ばれています。この場所は今も昔も交通の要衝として生き続けています。

| 18:51 | 投稿者 : ushiku |