風台風で稲が守られた

 

台風20号が通り過ぎました。牛久は日本海を北上中の暴風圏の縁がかすめたため、風も雨も少なかったのが幸いでした。この時期に台風が来るのが一番やきもきするのが刈り取り寸前の稲です。昨夜から今日にかけて比較的雨が少なかったのが幸いしました。これまで、台風の風雨で稲穂の茎が折れて、水田にべったりと引き詰められたような光景が見られますが、今回は市内の田んぼではこの光景は殆ど見られませんでした。完熟した重い稲穂は強い南風にも耐えていました。でも急がないと再び台風の脅威が。

| 17:28 | 投稿者 : ushiku |
乏水の台地から絞り出された小さな小川

 

出穂の終わった谷津田。ここは上太田町町の一角です。上太田と言いますと案外知られていないようですので、詳しく解説します。上太田町は牛久自然観察の森の東側、小野川にかかる豊年橋付近の集落です。写真は太田川の谷津で、写真右側は牛久市総合福祉センターがあります。そして、写真右の小川が太田川です。太田川の上流は、女化町で、水源は複数ありましたが、現在は湧水も出ていないかもしれません。太田川は牛久市の準用河川で、一級河川小野川の支流となっています。昔は乏水地帯と言われた女化台地(稲敷台地)から僅かな地下水が絞り出され、小さな川を形成していました。

| 19:28 | 投稿者 : ushiku |
江戸時代の名残を見つけた

 

何の変哲も無いひたち野牛久の踏切ですが、江戸時代の名残を見つけました。「第二御林踏切」の御林(おはやしとは、江戸時代8代将軍吉宗の時代に遡ります。戦国時代が終わり、世の中は平和になり、治安が良くなると、江戸に出れば仕事に有り付けるとばかり、出稼ぎが増え、江戸の人口は100万人を超えました。一都市で100万人と言いますと世界でも類を見ない大都市になっていました。ここで、幕府の悩みの種はエネルギー問題でした。幕府は、江戸を取り巻く周辺の村々に、「御林」(おはやし)を作るよう指示を出しました。御林とは、幕府の御林奉行が管理する(現在の国有林)林で、薪にするためのアカマツの植林を命じたのです。現在の牛久市域の大部分は明治初期までアカマツ林でした。そして、アカマツが育ち、加工した薪を江戸へ送るため水運が開設されました。牛久市域の小野川から現在の稲敷市伊佐津まで「伝馬造茶船」(でんまつくりちゃぶね)と言う小舟で運び、伊佐津(集積所)から高瀬舟に乗せ換えて霞ヶ浦を経由、利根川を遡り、関宿から江戸川に入り、行徳から新川・小名木川を経て、隅田川沿岸の河岸まで運んでいました。江戸まで片道200km、9日間の船旅でした。この水運を「小野川水運」と呼び、利根川に入ると「利根川舟運」と呼びました。

| 16:14 | 投稿者 : ushiku |
戦後最大の開拓・奥野開拓の碑

 

此方は元奥野開拓農協のあった場所で、現在は奥原婦人ホームとして活用されています。中央玄関左側には、戦後最大の開拓の奥野開拓の功労者、「平沢千秋氏」の胸像と開拓記念碑があります。昭和21年満州からの引き揚げ者によって、奥野村の開拓が始まりましたが、その開拓の団長が平沢氏で、開拓が進められました。苦労の末、開拓が緒についた昭和30年に「奥野開拓農協」として新たな門出がありました。その後、畜産(乳牛)、養鶏、養蚕等を主体とした純農村地帯として現在に至って居ます。平沢千秋氏の左にある大きな石碑は「奥野開拓記念碑」です。

| 16:49 | 投稿者 : ushiku |
谷津田の面影が消えた結束川

 

ここは、準用河川結束川です。神谷小学校の裏手付近の谷津を水源として、金の台ゴルフ場内通過して、県道48号線を横切り県道48号線に沿って(写真)小野川に注いでいます。実延長2000mの小さな河川です。現在は殆ど利用されておらず水も涸れています。昔は乏水の台地の中にあって、湧水によって流れが有り、谷津を利用した稲作が営まれていたことでしょう。その面影は神谷小学校の裏手にある谷津田に往事の農業が偲ばれます。正面が小野川で、前方のヤマが古城「岡見城館群」です。

 

 

 

| 16:51 | 投稿者 : ushiku |
牛久の中心部を水源とする川

 

小さな用水路ですが、これはれっきとした河川です。牛久市が管理する準用河川柏田川です。上流部は田宮2丁目、田宮跨線橋の北側付近です。この付近が柏田川の源流となり、常磐線の下を通り牛久シャトーの北側→市役所脇の近隣公園→市役所裏→県道272号線(ふれあい通り)→牛久市中央図書館南側→東洋大牛久高校南側→小野川。このようなルートで流れていました。現在は、県道272号線以西の上流部は全て暗渠となり、川の面影はありません。現在の川は図書館の南側から小野川までが、写真のように改修されて三面コンクリートの川となっています。牛久市の準用河川は(柏田川の他、根古屋川、刈谷川、遠山川、結束川、太田川の6河川があります)

| 17:00 | 投稿者 : ushiku |
衰えを知らない大仏人気

 

牛久市の最大の観光地というと、牛久大仏と異口同音に言われるようになってしまいました。本当の牛久の名所というと「牛久シャトー」の筈なのですが、「世界一」という触れ込みが大仏を一番目に押し上げているようです。休日の牛久駅東口前のバスターミナルにいますと凄い光景が見られます。「牛久浄園行」の直通バスが何時も満員です。立ち席もあって、大仏の人気は衰えを知りません。

大仏周辺の農村部から大仏を見ていますと、右手の辺りを通過する飛行機が度々見られます。飛行機は左から右へと通過し、成田空港に向かって高度もかなり低くなっているのでしょうか。ゆっくりと過ぎていきます。

| 17:23 | 投稿者 : ushiku |
奥野開拓地の現在

 

北海道のような雄大で牧歌的な風景が広がる奥野地区です。牛久の戦後開拓「奥野開拓」として歴史を刻んだ場所です。ここに入植したのは、昭和11年、長野県から満州の東安省蜜山県南五道崗に派遣された開拓団の方々でした。戦後、昭和21年に帰国が始まり、その開拓団が、奥野開拓地、奥野村(現牛久市)、沼里村(現稲敷市(江戸崎町))、君賀村(現稲敷市(江戸崎町))に昭和24年9月から平沢団長以下14名の先遣隊が入植。開拓組合は牛久町の最東端に位置し、牛久町と江戸崎町を境に126町6反、うち、牛久町66町6反、江戸崎町60町歩でした。住宅地は平沢団長によって全て奥野村につくられましたが、茅葺きで地面に枯れ草を敷いただけの寝起きだけの小屋で粗末なものでした。炊事場と風呂は野天で、ドラム缶の風呂。この時期一番困ったのは食料。サツマイモとトウモロコシ主体で、常に腹を空かせながら開墾が続きました。食糧事情は特に酷く、腹を空かせる子どものために母親は食べられず、栄養状態は最悪だったそうです。それでも母乳は出ました。先遣隊はこのような環境で雑居生活をしながら希望に満ちた(辛い開拓)がスタートしたそうです。現在のこの地区は大半が牧畜で、中央競馬会美浦トレーニングセンターに関連した競走馬のトレーニング牧場も増えています。

| 17:34 | 投稿者 : ushiku |
自然も公園も適度な人の関わりが必要

 

長閑な木道のある公園。ここは岡見の「上池親水公園・せせらぎの里」です。設立時は、「せせらぎの里」と呼ばれるに相応しい立派な公園でした。手回しの水車や、ホタルの飛ぶせせらぎ、四阿など、羨ましいほどの公園でした。でも、今は大きく変わっていました。子どもたちが自然に馴染めるような設備は老朽化で撤去されてしまったのでしょうか。そしてもっと残念なのは、写真の光景です。尾瀬のような木道の両側はアシ、ウキヤガラ、マコモなどの抽水植物が繁茂して、放置された湿地に戻っていました。

| 18:37 | 投稿者 : ushiku |
五月晴れの青空に怪しげな雲

 

今日のお天気は午前中は穏やかな晴れ、午後から大気が不安定になり、東京八王子では雹が降りました.茨城ではゲリラ的な雷雲が現れ、雷鳴は僅かでしたが、豪雨になりました。この夏空のような雲は発達して、積乱雲になり、大雨を降らせました。大粒の雨は、車のワイパー全開にするほどでした。この場所は上柏田から北側を望んだところです。左は圏央道、手前が小野川です。

雷雲の発達は、初めは「積雲」ですが、発達すると「積乱雲」(通称入道雲で、この時点では雨は降りません)になり、更に発達すると、「雄大積雲」となり、入道の頭のてっぺんが割れて雲が吹き出すようになると「かなとこ雲」となり、雷鳴が鳴り出します。今日は大きな雷鳴はありませんでしたが、豪雨になりました。

| 21:07 | 投稿者 : ushiku |