湯殿山の修験者が建立した大日様

 

島田町の畑の中に「島田の大日如来石像及び大日塚」があります。

左の標識の説明文には、当大日如来石仏は寛永6年(1629)出羽三山の湯殿山の修験者が「時念仏」という民間信仰を布教のため建立したもので、御湯殿山御神躰の胎蔵界大日様を刻み殆ど大日様の上に祀り、全国でも茨城県南地方にのみ見られる。大日如来は仏教界最高の仏像で、また真言宗の本尊である。此に「高福寺別当宝泉寺栄伝」「本願」などの銘刻があり、庶民信仰の対象として五穀豊穣等祈願した。近世に念仏衆が大きな塔婆を囲み数珠を操り、百万遍念仏を唱え「現当二世安楽」を祈った。

平成3年3月1日 牛久市教育委員会

| 18:25 | 投稿者 : ushiku |
五月雨に昼なお暗い古道

 

五月雨でしっとりと濡れた山道は牛久の古道「鎌倉街道」です。鎌倉街道とは、鎌倉時代に整備された道で、鎌倉幕府を開いた源頼朝が整備、保守しつつ、政治・経済・交通等を通して関東を支配していった主要な道でした。当時は鎌倉街道とは呼ばず、幕府のあった鎌倉から3本の道があり、関東一円に伸びていました。牛久を通るのはその一つ「下ツ道」と呼ばれる道で、鎌倉から東京湾沿いを通り、千葉から利根川を渡り、利根町、竜ヶ崎、そして島田村から牛久に入りました。

この道は金砂城の戦い(かなさじょうのたたかい)に源頼朝が進軍した道とされています。この戦は治承4年(1180)11月22日、常陸国金砂城(現常陸太田市金砂郷地区)における源頼朝率いる軍と常陸佐竹氏との戦いです。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の内の一つです。

 

 

| 16:27 | 投稿者 : ushiku |
国道468号線って?

 

圏央道というと高速道路と勘違いしている人が多いと思いますが、この道路は、「一般国道468号線」という一般の自動車専用道路(高規格幹線道路)として整備された国道です。記憶に新しいかと思いますが、平成29年2月の境古河IC〜つくば中央IC間約28キロメートルの開通してから、急激に交通量が増えています。最高速度も70kmと中途半端で、現在までに全線でSAの無い不便な道路となっています。茨城県内区間でトイレ休憩できるのは江戸崎パーキングエリア(PA、稲敷市)のみで、最も近い菖蒲PA(埼玉県久喜市)まで約76キロも離れていて、魔の空白区間といわれています。当然利用者から不満の声が上がっています。国土交通省は、前述のPAのほぼ中間地点に「坂東PA」の事業化が決定したとのことですが、時期は未定です。

| 17:30 | 投稿者 : ushiku |
荒川沖の地名由来

 

土浦市の乙戸沼を水源とし、牛久市島田町で小野川に合流する指定区間延長15キロメートルの小さな川ですが、何と一級河川でした。国土交通省は、上流部での市街化の進展による都市下水路からの流入増加や流域内における阿見吉原土地区画整理事業の実施を踏まえ、中下流部の流下断面不足を解消し、洪水被害の軽減を図るため、牛久市島田から土浦市荒川沖までの区間12.7キロメートルについて、平成6年度から河川改修に着手しました。

乙戸川はしばしば氾濫する「荒れ川」(今の乙戸川)が流れる地域の先の方(沖)という意味から「荒川沖」となったようです。乙戸川は乙戸沼を水源として小野川に合流し、霞ヶ浦に流れる静かな川ですが、かつて乙戸沼は水量が多く、付近は湿地帯だったようです。今の阿見町本郷区に集落があり、江戸初期に水戸道中(街道)が水害の多い地域を避けて整備されたことから、一部の人が街道沿いに移り住み、荒川沖宿(牛久宿の次)として発展ました。(写真は圏央道牛久阿見IC付近)

| 16:11 | 投稿者 : ushiku |
江戸時代の大動脈・水運

 

一級河川小野川の中流域です。小野川はつくば市小野崎に源を発し南東へ流れ、稲敷市古渡で霞ヶ浦に注いでいます。総延長36.45km。1979年、小野川を稲荷川につなぐ人工河川が完成し分流が始まり、稲荷川から牛久沼にも流入しています。これは筑波研究学園都市の建設に伴い都市排水を考慮してのことでした。小野川は今でこそ農業用水に利用されるだけですが、江戸時代は小野川流域に薪炭林(幕府の命令で「御林」・天領)が設けられたアカマツ林が広がっていました。小野川流域のアカマツは薪炭林として、江戸のエネルギーの供給基地として大きな役割を担っていました。牛久市域からは「伝馬造茶船(でんまつくりちゃぶね)」という田舟ほどの小型の船で、搬出され、現稲敷市の伊佐津で高瀬舟に積み替えられて江戸へ送られました。当地で集められた薪は付近の農作物などと共に小野川から霞ヶ浦・横利根を経由して利根川、関宿から江戸川を経由して江戸まで舟で運ばれていました。この水運を「小野川水運」とよび、利根川については「利根川舟運」と呼ばれ、物資搬送の大動脈となっていました。

 

 

 

| 17:18 | 投稿者 : ushiku |
小野川水運で栄えた村

 

左手が小坂町方面、右手が上太田町に架かる「豊年橋」です。下の川は一級河川「小野川」。水源地はつくば市小野崎の味城(みじょう)跡と洞峰沼(現在は洞峰公園)で、稲敷市の古渡まで、つくば市、牛久市、稲敷市の三市を流れる川です。この川が注目されることになったのは、江戸時代前期、八代将軍吉宗の時代でした。平和な世の中が訪れると、江戸の人口は急増。人口百万の大都市になりました。この時代の小野川は、霞ヶ浦経由で、利根川を上り関宿から江戸川に入り、江戸迄の水路が完成していました。この大土木工事が「利根川の東遷」でした。幕府はこの水運を利用したエネルギー政策を打ち出し、江戸を取り巻く村々に、「御林」(おはやし)の植林を命じました。植林されたのは「赤松」で、成長した暁には薪炭として江戸直納を義務づけたのでした。牛久市域では小さな河岸が幾つももうけられ、河岸の名称も設置した村人の名前が付けられ、「・・・河岸」と呼ばれるようになりました。豊年橋付近には雑木林も多く、他の地域よりも早く薪炭を搬出が出来た筈です。河岸から「伝馬造茶船」(でんまつくりちゃぶね)という、小野川に適した作りになっていた小型の舟で幕府から鑑札をもらい、船主となっていきました。この水運を「小野川水運」と呼び、薪炭の他、年貢米も運び出されました。結束町などから積み出された薪炭は、伝馬造茶船で現稲敷市の「伊左津河岸」まで、運び、ここから高瀬舟(当時最大の舟で、500石船とよばれ、佐原から回航)に積み替えられ、古渡から霞ヶ浦に出て、横利根を通り利根川に出ました。利根川からは北上し、関宿から江戸川に入り、行徳を過ぎると、幾つもの運河を進みました。新川と小名木川の接続点には中川舟番所(関所)があり、検問を受けて小名木川を大川(隅田川)まで進み、年貢前は「蔵前」の河岸。薪炭は「御竹蔵」に荷下ろしされました。片道10日以上もかかった大変な航海だったようです。

| 16:38 | 投稿者 : ushiku |
お伊勢参りに通った道だった

 

ここは小坂と女化を結ぶ山道です。昼なお暗い市道です。対向車には譲り合いの精神が無ければすれ違いは出来ません。現在では、地元の人しか利用しないと思われます。この道は、明治時代に入り、牛久市域から、竜ヶ崎貝原塚等に買い物などに利用された主要道でした。また、明治初期には小坂から、お伊勢参りに出かけた村人が通った道でもあります。当時は鉄道も、新橋、品川簡しか通っていませんでした。小坂からスタートした村人は、この道を通り(手前が竜ヶ崎)竜ヶ崎を通り、利根町から利根川を渡り、千葉県の印西を通過して、日本橋まで出たそうです。東京に着いたのは出発してから二日目で、日本橋で二日目の宿をとり、三日目で、新橋から横浜まで陸蒸気に乗ったそうです。横浜で降りた一行は東海道を西に進んだと言うことです。今では忘れられた山道にも村の歴史がありました。

| 20:40 | 投稿者 : ushiku |
牛久の桜の新名所・牛久大仏

 

牛久の桜の名所として定着した「牛久大仏」に行ってきました。最近の報道番組にもたびたび登場する牛久大仏の桜。すでに散り始めていますが、まだまだ見られます。特にソメイヨシノとシバザクラのコントラストが見事でした。

昨日、日本列島を覆っていた移動性高気圧は東に逸れて、代わって低気圧が近づいています。このため、今日は一日曇り空でしたが、気温も上がり、凌ぎやすい一日でした。桜前線は関東を制覇し、東北地方に進んでいます。今年の桜は本当に長い間楽しませてくれました。古くから日本人は、桜の満開だけを待ち望んだわけではありません。蕾に気を掛け、7分咲きにも目を細め、散り終えてからも余韻を楽しむ心がありました。香り立つ桜の花を「盛りの花」と呼び、満開の桜が連なる様子を「花の雲」などなど、多くの呼び方がありました。そして、葉に先立って咲く花を「葉(歯)なし」に掛けて「姥桜」(うばざくら)と呼ぶユーモアがありました。

| 17:03 | 投稿者 : ushiku |
源頼朝が進軍した鎌倉街道

 

ここは県道68号線(国道408号正直町信号から阿見町方面)と通称鎌倉街道の交差点、牛久二中入り口付近です。交差点から東に数十メートル、右折した道です。右が山一味噌、左奥が奥野生涯学習センターです。この細い道は市道2154号線です。この道にとても価値があります。改めて岡見町から、小坂団地の北側を通り、牛久二中信号までを、通称鎌倉街道と言っています。しかし、牛久二中交差点から東に進む道は鎌倉街道ではありません。市道7号線と言い、明治期には無かった道です。昭和53年に市道に指定されました。さて、写真の道ですが、市道2154号線とは、幻の古道鎌倉街道なんです。この道を直進しますと長沼りんご園、さらに進みと国道408号にぶつかります。この道が旧鎌倉街道です。鎌倉街道は鎌倉時代からあった道で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の時代にはありました。源頼朝は鎌倉に幕府を開くと、軍事目的のみならず年貢やその他物資輸送のため鎌倉へ通じる道路を整備しました。鎌倉街道には主道が3つあり、上ッ道、中ッ路、下ッ道と呼ばれている三本の道。いずれも鎌倉から武蔵国に向かい関東豪族の居館へ通じていました。牛久の鎌倉街道は、下総国府(現在の千葉県市川市)から常陸国府(石岡市)に通じる道路の一部であったと考えられており、「下ッ道」にあたります。源頼朝はこの道を金砂城の佐竹氏を討伐するために通ったとされます。

| 19:57 | 投稿者 : ushiku |
牛久の昔話の主人公たち

 

ひたち野うしく駅の東西に、なにやら不思議な銅像があります。左は東口の「八兵衛さん」。右が西口の「八兵衛さんの村の仲間」です。これは、牛久に伝わる昔話、「酒島の霊泉」に出てくる主人公です。下根中学校と圏央道の間に広がる田んぼの中にある五十瀬(いそせ)神社。境内には「酒島村霊泉之碑」があり、酒がわき出たという言い伝えがあります。酒島村の名前は鎌倉時代に同地を河内郡酒島郷といったのが由来とされ、その昔、暴れ川として恐れられていた付近の小野川から流れてきた御輿を村一番の働き者の八兵衛が見つけ、神社の境内に運び込みほこらを造って祭ったという話から始まります。朝晩欠かさずお参りし泉の水を病気がちだった祖父に飲ませたところ病気が回復。霊験ある神社の泉としてうわさが村中に広まり、村人が神社に集まってみると泉の水は酒に変わっていたということです。大喜びした村人たちはいつしか泉のことを「酒島の霊泉」と呼び、参拝者や酒を目当てに来る人が増え一段と村は活気づいたという。伝説とされるみこしは近世になって造り替えられ、酒がわき出たとされる井戸も干上がっています。境内の裏手にある「酒島村霊泉之碑」は正月にしめ縄を飾り、7月の夏祭りではみこしが担がれます。かつてのにぎわいはないものの、ひたち野うしく駅前のロータリーには往時をしのばせる村人たちの酒盛りの様子が銅像となって残っています。

| 19:23 | 投稿者 : ushiku |