谷津田の面影が消えた結束川

 

ここは、準用河川結束川です。神谷小学校の裏手付近の谷津を水源として、金の台ゴルフ場内通過して、県道48号線を横切り県道48号線に沿って(写真)小野川に注いでいます。実延長2000mの小さな河川です。現在は殆ど利用されておらず水も涸れています。昔は乏水の台地の中にあって、湧水によって流れが有り、谷津を利用した稲作が営まれていたことでしょう。その面影は神谷小学校の裏手にある谷津田に往事の農業が偲ばれます。正面が小野川で、前方のヤマが古城「岡見城館群」です。

 

 

 

| 16:51 | 投稿者 : ushiku |
牛久の中心部を水源とする川

 

小さな用水路ですが、これはれっきとした河川です。牛久市が管理する準用河川柏田川です。上流部は田宮2丁目、田宮跨線橋の北側付近です。この付近が柏田川の源流となり、常磐線の下を通り牛久シャトーの北側→市役所脇の近隣公園→市役所裏→県道272号線(ふれあい通り)→牛久市中央図書館南側→東洋大牛久高校南側→小野川。このようなルートで流れていました。現在は、県道272号線以西の上流部は全て暗渠となり、川の面影はありません。現在の川は図書館の南側から小野川までが、写真のように改修されて三面コンクリートの川となっています。牛久市の準用河川は(柏田川の他、根古屋川、刈谷川、遠山川、結束川、太田川の6河川があります)

| 17:00 | 投稿者 : ushiku |
衰えを知らない大仏人気

 

牛久市の最大の観光地というと、牛久大仏と異口同音に言われるようになってしまいました。本当の牛久の名所というと「牛久シャトー」の筈なのですが、「世界一」という触れ込みが大仏を一番目に押し上げているようです。休日の牛久駅東口前のバスターミナルにいますと凄い光景が見られます。「牛久浄園行」の直通バスが何時も満員です。立ち席もあって、大仏の人気は衰えを知りません。

大仏周辺の農村部から大仏を見ていますと、右手の辺りを通過する飛行機が度々見られます。飛行機は左から右へと通過し、成田空港に向かって高度もかなり低くなっているのでしょうか。ゆっくりと過ぎていきます。

| 17:23 | 投稿者 : ushiku |
奥野開拓地の現在

 

北海道のような雄大で牧歌的な風景が広がる奥野地区です。牛久の戦後開拓「奥野開拓」として歴史を刻んだ場所です。ここに入植したのは、昭和11年、長野県から満州の東安省蜜山県南五道崗に派遣された開拓団の方々でした。戦後、昭和21年に帰国が始まり、その開拓団が、奥野開拓地、奥野村(現牛久市)、沼里村(現稲敷市(江戸崎町))、君賀村(現稲敷市(江戸崎町))に昭和24年9月から平沢団長以下14名の先遣隊が入植。開拓組合は牛久町の最東端に位置し、牛久町と江戸崎町を境に126町6反、うち、牛久町66町6反、江戸崎町60町歩でした。住宅地は平沢団長によって全て奥野村につくられましたが、茅葺きで地面に枯れ草を敷いただけの寝起きだけの小屋で粗末なものでした。炊事場と風呂は野天で、ドラム缶の風呂。この時期一番困ったのは食料。サツマイモとトウモロコシ主体で、常に腹を空かせながら開墾が続きました。食糧事情は特に酷く、腹を空かせる子どものために母親は食べられず、栄養状態は最悪だったそうです。それでも母乳は出ました。先遣隊はこのような環境で雑居生活をしながら希望に満ちた(辛い開拓)がスタートしたそうです。現在のこの地区は大半が牧畜で、中央競馬会美浦トレーニングセンターに関連した競走馬のトレーニング牧場も増えています。

| 17:34 | 投稿者 : ushiku |
自然も公園も適度な人の関わりが必要

 

長閑な木道のある公園。ここは岡見の「上池親水公園・せせらぎの里」です。設立時は、「せせらぎの里」と呼ばれるに相応しい立派な公園でした。手回しの水車や、ホタルの飛ぶせせらぎ、四阿など、羨ましいほどの公園でした。でも、今は大きく変わっていました。子どもたちが自然に馴染めるような設備は老朽化で撤去されてしまったのでしょうか。そしてもっと残念なのは、写真の光景です。尾瀬のような木道の両側はアシ、ウキヤガラ、マコモなどの抽水植物が繁茂して、放置された湿地に戻っていました。

| 18:37 | 投稿者 : ushiku |
五月晴れの青空に怪しげな雲

 

今日のお天気は午前中は穏やかな晴れ、午後から大気が不安定になり、東京八王子では雹が降りました.茨城ではゲリラ的な雷雲が現れ、雷鳴は僅かでしたが、豪雨になりました。この夏空のような雲は発達して、積乱雲になり、大雨を降らせました。大粒の雨は、車のワイパー全開にするほどでした。この場所は上柏田から北側を望んだところです。左は圏央道、手前が小野川です。

雷雲の発達は、初めは「積雲」ですが、発達すると「積乱雲」(通称入道雲で、この時点では雨は降りません)になり、更に発達すると、「雄大積雲」となり、入道の頭のてっぺんが割れて雲が吹き出すようになると「かなとこ雲」となり、雷鳴が鳴り出します。今日は大きな雷鳴はありませんでしたが、豪雨になりました。

| 21:07 | 投稿者 : ushiku |
猿股池と命名された理由

 

ここは何処かの川のような風景ですが、上柏田の通称「猿股池」です。現在は「二池」(にいけ)と呼ばれています。何故猿股池と呼ばれるようになったのか、古い記録はありませんが、明治14年陸軍省測地部が作成した当時の迅速速図「牛久村」に猿股池の姿が残されていました。地図を開いたとき、猿股の上が北、下が両足となっていて、まさに猿股、すててこ or もも引きのような形をしています。この池が何のためにあったのかですが、小野川は豊かな水源はなく(洞峰沼、味城が水源)、乏水地帯でしたから、小野川流域の農業用水のために作られたものと考えられます。この当時の小野川流域には多くの農業用水池がありました。地図の上から順に記しますと、小野川右岸(上柏田側)が猿股池。左岸がひたち野牛久桜公園の南側の調整池。右岸の牛久シャトー裏の農業用水池(現在のシャトー裏の葡萄畑、ロイヤルホームセンター、市近隣公園)の農業用水池で現在は埋め立てられて居ます。左岸の岡見城址の横にある「山道池」。更に東に行くと、戦国時代の岡見城館群の中の池(名前不肖)などがありました。

| 18:31 | 投稿者 : ushiku |
長い歴史の中に流れる小野川

 

ここは下根町の一級河川小野川です。場所は中根小学校付近。左上は圏央道。現在は小さな川という感じになっていますが、河川改修前は暴れ川でした。現在は河畔林に埋め尽くされたという感じで、流れも霞んでいます。江戸時代中期には利根川東遷の完了を見て、霞ヶ浦流域からの舟運が発達しました。当然小野川の水運も発達し、「小野川水運」として物資の搬出が盛んに行われる重要な河川となっていきました。小野川流域からは年貢米・薪炭の積み出しが盛んに行われ、土浦港からは醤油、石岡からは清酒が江戸に送り出されていました。更に古い時代に遡りますと、6000年前の縄文時代には「縄文海進」によって、海面が5m近く上昇し、この小野川にも太平洋から海水が流れ込んでいました。その証として、この写真の場所で、今では絶滅した「トウキョウホタテ」など貴重な貝化石が多数見つかっています。*縄文海進:地球の最も温暖期で、極の氷が溶けて海面上昇。その逆は「海退」と言います。

 

| 15:07 | 投稿者 : ushiku |
今も語り継がれる酒島の霊泉

 

牛久市立下根中学校と圏央道の間に広がる田んぼの中に五十瀬(いそせ)神社が静かに佇む。境内には「酒島村霊泉之碑」があり、酒がわき出たという言い伝えがある(うしく昔話)。酒島村の名前は鎌倉時代に同地を河内郡酒島郷といったのが由来とされ、その昔、暴れ川として恐れられていた小野川から流れてきたみこしを村一番の働き者の八兵衛が見つけ、神社の境内に運び込みほこらを造って祭った。朝晩欠かさずお参りし泉の水を病気がちだった祖父に飲ませたところ病気が回復。霊験ある神社の泉としてうわさが村中に広まり、村人が神社に集まってみると泉の水は酒に変わっていた。大喜びした村人たちはいつしか泉のことを「酒島の霊泉」と呼び、参拝者や酒を目当てに来る人が増え一段と村は活気づいたという。中央の木立の下が五十瀬神社。後方は圏央道。伝説の井戸は涸れてしまっています。

| 19:24 | 投稿者 : ushiku |
圏央道の隆盛と小野川水運

 

昨年2月に県内区間が全線開通した首都圏中央連絡自動車道について、国土交通省は平成29年12月18日、県内全線70・5キロを含めた久喜白岡ジャンクション(JCT、埼玉県)-大栄JCT(千葉県)間の暫定2車線区間の4車線化に着手すると発表しました。国が低金利で貸し出す財政投融資(財投)を活用して整備を早めるそうで、2022年度から順次供用を始め、24年度の完成予定です。

圏央道は牛久市内の区間全域とつくば市の一部区間が、小野川の上を走っています。小野川は江戸時代に、年貢米や薪炭を江戸に運ぶため、水運が発達し、市域の小野川には河岸が幾つも設置されました。これを小野川水運と言い、江戸と結ぶ重要な交通の要衝でした。

| 19:58 | 投稿者 : ushiku |