間もなく梅雨入り、紫陽花寺は

 

間もなく梅雨入りですね。関東は木曜日頃と言われています。この季節は湿度が高く鬱陶しい季節ですが、この時期に映えるハナショウブやアジサイは乾燥していては映えません。梅雨の季節の花と言っても良いでしょう。

ここは久野町の古刹観音寺です。このお寺は紫陽花とイチョウの黄葉で有名ですが、紫陽花の見頃の時期はまだ先のようです。ここは青の紫陽花が多いようです。紫陽花は酸性土壌・アルカリ性土壌で花の色が変わると言われていますが、日本の土壌は弱酸性のため、青が多く、ヨーロッパはアルカリ性でピンクの紫陽花が多いと言われています。紫陽花は花のリトマス試験紙と言われていますが、実際の試験紙とは色が逆です。

| 17:14 | 投稿者 : ushiku |
昔話の主人公が居るひたち野牛久駅

 

牛久の民話「酒島の霊泉」の主人公・八兵衛さんの像です。ここはひたち野牛久駅東口にあります。

物語は、牛久市立下根中学校と圏央道の間に広がる田んぼの中にある五十瀬(いそせ)神社。境内には「酒島村霊泉之碑」があり、酒がわき出たという言い伝えがあります。酒島村の名前は鎌倉時代に同地を河内郡酒島郷といったのが由来とされ、その昔、暴れ川として恐れられていた付近の小野川から流れてきたみこしを村一番の働き者の八兵衛が見つけ、神社の境内に運び込み祠を造って祭った。

朝晩欠かさずお参りし泉の水を病気がちだった祖父に飲ませたところ病気が回復。霊験ある神社の泉としてうわさが村中に広まり、村人が神社に集まってみると泉の水は酒に変わっていた。大喜びした村人たちはいつしか泉のことを「酒島の霊泉」と呼び、参拝者や酒を目当てに来る人が増え一段と村は活気づいたといわれています。泉は現在は枯れてしまって居ますが、井戸は神社の裏に残されています。

| 16:55 | 投稿者 : ushiku |
谷津田が一番映える季節 その2

 

昨日に続き、谷津田です。日本の原風景と言われる美しい景観を残す谷津・谷津田は茨城の県南では牛久が最も注目されるところです。昨日も申し上げましたが。牛久は稲敷台地の南端にあり、台地の中に深く入り込む谷(谷津)は絞り水を集め谷津が形成され、小さな川となって牛久沼や霞ヶ浦に注いでいます。この場所は上太田町ですから、谷津の湧水は太田川となって、小野川に注ぎ、霞ヶ浦に注いでいます。小野川の流域は水が豊富であることで、現在でも市内有数の稲作地帯となっています。この付近の稲作は300年前の江戸享保の時代に遡ります。七代将軍吉宗の時代、江戸の人口が100万人を超えました。幕府が一番困窮したことは、水と燃料(エネルギー)と食料(米)でした。そこで、吉宗は江戸を取り巻く周辺の村々に、薪炭として利用できる赤松林の御林(おはやし)を早急に植林するよう命じました。当然この地区も御林となり、雑木が伐採されて赤松に代わっていきました。成長した赤松は伐採され、薪炭とされ、米と一緒に、江戸に直納されたのです。その運搬経路が、小野川水運(舟運)でした。この付近(結束町。上太田町)には農家の河岸が幾つも設置され、伝馬造茶船(でんまつくりちゃぶね)という国内でも唯一の得異な形をした田舟で、伊佐津河岸(現稲敷市)まで運び、そこから高瀬舟で江戸まで送り出されていました。片道200kmの水運でした。

| 19:37 | 投稿者 : ushiku |
小野川、300年後の姿

 

五月も後半に差し掛かりました。田植えもすっかり終わった水田の早苗はしっかりと活着し、そよ風になびいていました。ここは圏央道中根小学校付近です。圏央道全通以来、通行量は格段と増えたようです。この圏央道の下は一級河川小野川がつくば市から稲敷市の霞ヶ浦の古渡まで流れています。この小野川は江戸時代中期から水運の要衝として栄えました。その名は「小野川水運」と呼ばれ、江戸迄200kmの水運を利用して、燃料としての薪炭を送り込んでいました。交通の要衝は水運から高速道路に姿を変えて繁栄を続ける事でしょう。

| 18:13 | 投稿者 : ushiku |
俄雨に喜ぶ早苗

 

今日から五月、「皐月」ですね。「さつき」とは、早苗を植える時期で「早苗月」(さなえづき)が省略されて「さつき」となりました。他にもまだまだ色々な呼び方があり、「稲苗月」(いねなえづき)、「早稲月」(さいねづき)とも呼ばれていました。まさに緑一色の世界。そして、田植えが始まりました。早苗と言っても、まだまだ小さく、風になびく程ではありませんが、今日の午後から天気急変、雷雨となりましたが、早苗にとっては恵みの雨だったと思います。

| 17:43 | 投稿者 : ushiku |
交通の要衝も今は姿を変えて

 

一級河川小野川のすぐ脇を通る首都圏中央自動車連絡道、今年の2月26日全線開通しました。まだ対面交通が多いようですが、以前と比べ交通量は格段と増えています。そして、小野川ですが、今も静かに流れています。この小野川には遠い昔に遡ると、江戸時代8代将軍吉宗の時代には、物流の重要な要衝でした。戦国時代が終わり、世の中は平和になると、江戸に出れば仕事に有り付けるとばかり、出稼ぎが増え、江戸の人口は100万人を超えました。一都市で100万人とは世界でも類を見ない大都市となっていました。ここで、幕府の悩みの種はエネルギー問題でした。吉宗は、江戸を取り巻く周辺の村々に、「御林」(おはやし)を作るよう指示を出しました。御林とは、薪や炭にするための赤松の植林を命じたのです。赤松が育ち、出荷する段階になると、どうやって江戸に配送するのか。ここで考えられたのが水運でした。小野川から現在の稲敷市伊佐津まで田舟に似た「伝馬造茶船」(でんまつくりちゃぶね)で運び、伊佐津から高瀬舟に乗せて霞ヶ浦・利根川・関宿から江戸川・行徳から新川・小名木川を経て、大川(隅田川)まで運んでいました。江戸まで200km、9日間の船旅でした。この水運を「小野川水運」とか「小野川舟運」と呼びました。

| 17:56 | 投稿者 : ushiku |
新緑の雑木林にアクセント

 

雑木林の林床にショカッサイ(ムラサキハナナ)が新緑の林に映えていました。ここは、猪子町の道山古墳群です。ここは地元の人によって綺麗に整備され散策ができるように整備されています。このショカッサイは林床全体に生えているのではなく、林の周囲を囲むように林のアクセントになっています。見事なバランスです。(この場所は、国道408号、太田胃散の近くです)

| 19:33 | 投稿者 : ushiku |
伝馬造茶船が行き交う小野川の畔

 

小野川の水は今日も静かに流れていました。今から約202年前の文化10年、11代将軍徳川家斉の時代に、小野川は大きく注目されることになりました。更にここから遡ること100年前、8代将軍徳川吉宗の時代に、江戸の人口は急増し、100万都市として、エネルギー問題が大きな課題となりました。この時、幕府は江戸を取り巻く周辺の村々に「御林」(おはやし・アカマツ林)を造林し、アカマツを薪炭にして江戸直納を命じたのです。牛久市域も大半が御林になりました。それから100年が経過すると、御林のアカマツは大きく成長し、江戸に薪炭を収める時期がきました。これら薪炭を大量に運ぶ手段としては、水運が一番だったのです。そして、文化10年8月9日(1813)に牛久の村々の農民が幕府郡役所に申請していた「伝馬造茶船」(でんまつくりちゃぶね)の鑑札が下りたのでした。鑑札を受けた農民は、小野川に自家用の河岸を設け、伝馬造茶船に荷(薪炭・年貢米など)を乗せて、現稲敷市の「伊佐津河岸」まで運び、ここから高瀬舟に載せ替え、江戸まで運んだのでした。小野川の畔に立つと、当時の水運の苦労が忍ばれます。

| 19:52 | 投稿者 : ushiku |
間もなく錦秋の観音寺

 

久野町の古刹観音寺の紅葉が始まりました。イチョウは色づき、一部散りだしていますが、もう少し時間がかかりそうです。山門前のカエデの紅葉はうっすらと色づいてきましたが、此方ももう少し時間がかかりそうです。正面の山門(県指定文化財)の後ろにあるイチョウの巨木は樹齢300年(推定)と言われている市内でも有数のイチョウです。そのイチョウの葉が散り出すと、秋が終わります。イチョウの散り出す時期は12月に入ってからで、境内も山門前(写真)も黄金色に染まります。ここ数年、落葉の時期は遅れて、12月に入ってからです。地球温暖化の影響なのでしょうか?

| 18:35 | 投稿者 : ushiku |
年々遅れる紅葉の時期

 

久野町の古刹観音寺の紅葉はまだ時間がかかりそうです。ここはイチョウとカエデの紅葉(黄葉)は市内随一となっています。正面の山門(県指定文化財)の後ろにあるイチョウの巨木は樹齢300年(推定)と言われている市内でも有数のイチョウです。そのイチョウの葉が散り出すと、秋が終わります。イチョウの散り出す時期は12月に入ってからで、境内も山門前(写真)も黄金色に染まります。ここ数年、落葉の時期は遅れて、12月に入ってからです。地球温暖化の影響でしょうか?

| 20:08 | 投稿者 : ushiku |