230年続いた牛久陣屋の「山口氏」

 

ここは茨城景観百選の「河童の碑と牛久沼」に選定されている「小川芋銭の河童の碑」です。市民ですとどなたでもご存じかと思いますが。江戸時代この碑の付近に何があったかご存じですか。戦国時代後期から、廃城になっていた牛久城に、山口重政が移封となりました。山口重政は周防国守護「大内氏」の庶流です。山口重政は牛久藩の藩主となりましたが、1万石の大名は城が持てません。従って牛久に移封されて、バラック建ての屋敷に仮住まいだったのかもしれません。山口氏は二代目「弘隆」によって、現在の河童の碑の北側に「陣屋」を設けました。1万石の小藩は、どこでも城が持てず、「城主」とはなれませんでした。城持ちの藩主は「格」が「城主」と呼ばれましたが、小藩の「格」は「陣屋」と呼ばれました。二代目はここの写真の場所に陣屋を設けました。戦国時代の天正18年に牛久城が落城したとき、牛久城はどのような姿だったのでしょうか? 焼き払われていたかもしれません。岡見氏の後に、由良国繁が移封になり、二代に渡って藩政を司りましたが、後継者がなく二代で除封となり、しばらく廃城となりました。そして、江戸時代になり、山口重政が移封。二代目弘隆は本城と離れた、この場所を選び「陣屋」を建てました。平和な時代ですから、豪族の屋敷ほどだったのでしょう。写真の場所に、牛久沼に面して、陣屋の裏側の「沼御門」、雲魚亭に向いた面が「裏御門」。そして沼御門の反対側、北側に「表御門」が設けられました。周囲には農村集落もあり、平和な時代に「士」と「農」が城中の一角で共存していました。そして150年後、表御門が市内某所で現存していました。驚きです。牛久市の文化財として保存してほしいですね。

| 19:08 | 投稿者 : ushiku |