稲敷台地を仰ぐ牛久沼

 

牛久沼水辺公園から牛久市城中方向を遠望。水面は牛久沼。この写真で何か気づきませんか? 牛久沼は6000年前の「縄文海進」(地球が熱く、大陸の氷床が溶けて)で、海面が5m近く上昇、牛久沼も太平洋の海水が入り込んでいました。その後地球は冷えて、「海退」が始まり、残ったのが牛久沼や霞ケ浦が海跡湖となります。正面の台地が稲敷台地、そして牛久沼。牛久沼の手前は陥没低地と言われた低地で、現在の利根川までがその低地となっていました。江戸時代初期には利根川は隅田川につながっていました。上流で大雨が降れば、江戸の町は洪水で悩まされていました。それを何とかしたいと動き出したのが徳川家康でした。天正18年(1590)、秀吉の天下統一で、小田原北条氏を攻略し、秀吉が天下を手中に収めました。その最前線の基地(小田原)で、秀吉は家康を呼びつけ、武蔵の国を与えるから江戸に行けと命じました。家康はとるものも取らず家来とともに江戸に。朽ちかけた千代田城に入った家康は、1590年〜1600年までの10年間、鷹狩と称して、家来を伴い、武蔵の国をくまなく調べ上げました。その時に見つけたのが、利根川の前身となる湿地帯でした。ここから江戸につながる利根川の本流を変えようという壮大な計画がスタート。鷹狩の大きな成果でした。その後、隅田川につながっていた利根川を東に移し替える「利根川の東遷」という大事業を幕府が行いました。ですから、我孫子・取手から竜ケ崎に至る地域は「陥没低地」とされるゼロメートル地帯でした。時代が更に古くなり、800年前の鎌倉時代になると、我孫子まで来た源頼朝率いる兵は、湿地帯の続く取手、利根町、竜ケ崎を、田舟を利用するしかなかったようです。その後、現国道408号島田町付近の小野川を過ぎ、舟からやっと解放され、鎌倉街道を北に進んだということです。

 

| 21:17 | 投稿者 : ushiku |