女化の洋館に日の目が

 

レンガ造りの洋館の廃墟。ここは、明治の実業家「竹内 綱」(たけうちつな)が建設した、女化の洋館です。女化一帯は明治8年、当時の内務卿大久保利通の命をうけて、旧紀州藩士の「津田 出」(つだいずる)が女化開拓に乗り出しました。乏水で、荒蕪の地という悪環境の中、国策の開拓が始まりましたが、開拓は困難を極め、数年で挫折しました。再び荒蕪の地に戻った女化が原に目を付けたのは、神谷伝兵衛(シャトー)と、前述の竹内綱でした。荒蕪の地を国から買い取り、欧米式農場を建設しようと、女化の地に洋館を建て、長男の「明太郎」とその孫に事業を託しました。この洋館は明治9年に完成、総レンガ造りで、牛久シャトーよりも早く完成した見事な洋館でした。竹内綱は実業家で、常磐炭鉱、九州の炭鉱等幾つも所有していた他、関東鉄道初代社長など、多くの企業を経営する有力な実業家とともに、自由民権運動の活動家でした。五男には「茂」がおり、この茂こそ、第45代総理大臣「吉田茂」でした。茂は生まれてすぐ、品川の貿易商吉田家に養子に入り、吉田姓となりました。女化の開拓は長男明太郎によって始まりました。しかし、スタートは良かったのですが、炭鉱不況の煽りを受けて、欧米式農場の存続は不能となり、明太郎一家は洋館を残して東京に帰りました。その洋館は暫く日の目を見ず、杉木立の中に埋もれていましたが、最近、竜ケ崎市によって、保存の動きが出てきました。

*この遺跡を保存してほしいと、10年前に竜ケ崎市の担当部署の課長に進言したことがありましたが、あれから10年が経ってしまいまいました。10年のギャップを払しょくして、素晴らしい記念物にしてほしいと思います。

| 19:24 | 投稿者 : ushiku |