牛久の歴史ボランティアガイド養成講座第十回の現地踏査

 

ここは、阿見町の上小池共同墓地です。「うしく歴史まち歩きの会」ガイド養成講座のメンバーと現地踏査を行いました。今回の講座名は「牛久助郷一揆の時代」という単元です。江戸時代後期(将軍家斉)、文化元年(1804)10月18日〜22日に牛久で起きた助郷一揆です。幕府の助郷制度に天明の大飢饉のさなか、農民は疲弊していました。厳しい生活の中、幕府は宿場間の公用の荷の継立てで、人馬の徴発を強めていきました。これに対し、農民の怒りは爆発し、一揆に発展してしまったのです。前述の期間に周辺の村々から2000人ほどが18日に女化稲荷神社境内に集まりました。頭取は3人、勇七、吉重郎、兵右衛門の3人。最初は冷静に、牛久宿本陣の来ていた勘定奉行の役人に数の論理で制度を改めてもらおうという計画でしたが、2000人は爆発、宿場役人・麻屋治左衛門宅、更には制度を悪用しているとされた、久野村の名主和藤治宅等を次々に打ち壊しました。そんな騒動の中、近隣諸藩から鉄砲隊が次々に到着、その情報を聞いた一揆は女化が原、阿見が原で解散。翌日、奉行所は首謀者を逮捕、首謀者に荷担した村々にも奉行所の手が回りました。三人の頭取は江戸小伝馬町の牢屋敷に収監され、連日の拷問で、翌正月、相次いで獄死。三人の判決だ出たのは8月でした。打ち壊しのあった名主治左衛門は心の優しい方で、頭取の三人の供養のため、阿見が原に道標を立て、道標の裏側にこっそりと三人の戒名を刻みました。その三人の墓地が見つかったのです。明治初期までは、土浦の墓地にありましたが、その後勇七、吉重郎の墓は、両人の末裔の墓地に移されました。兵衛門の墓は、桂の金剛院にありましたが、無縁仏として整理されてしまったようです。写真は左側の墓地の奥側に勇七の小さな墓石が末裔の方に大切に供養されていました。右の墓地も同じく奥側に小さな墓石があり、吉重郎の墓石でした。農民一揆は以前は生活の困窮した農民の暴徒感が支配していましたが、現在は「義民」として各地で顕彰されています。

| 16:44 | 投稿者 : ushiku |