うしく歴史まち歩きの会ガイド養成講座第八回

 

「うしく歴史まち歩きの会ガイド養成講座」第八回の現地踏査を行いました。今回は「牛久の三大開拓」の現地踏査でした。

女化開拓の歴史遺産の見学。奥野開拓の歴史と遺産。成美開拓の歴史と遺産という前回の講座の検証でした。

スタートは女化青年研修所の見学。現在一般公開をしていませんが、生涯学習課から特別の許可をいただき、見学することができました。昭和14年に建設された貴重な歴史遺産(登録有形文化財)「女化分教場」をじっくりと見学しました。その後、女化神社奥の院です。ここにある、女化神社の開拓記念碑とも言うべき五角形の石柱(写真)をつぶさに見学、台座には女化開拓で、阿波徳島から入植した47人の名前が刻まれています。明治初期、不毛の大地と言われた女化が原に国策で開拓が始まりましたが、途中で挫折。その後紆余曲折はありましたが、広大な土地は地元有力者や神谷伝兵衛、竹内綱という歴史上の大物が取得、入植者にも払い下げられました。しかし、現在のような農機具もなく入植者は血の滲むような労苦があったはずです。そして年月が過ぎ、開拓に目処がついた頃、47人の入植者は古里を思い出しながら女化神社奥の院に建てた記念碑です。女化の後は奥野に移動。戦後の最大の開拓「奥野開拓」のリーダー「平沢千秋翁」を偲びながら奥野開拓の苦労を学びました。平沢千秋翁の胸像の隣には大きな奥野開拓祈念碑があり、碑文には「先人が拓いたこの台地 絶やすことなく後生に」と刻まれていました。奥野開拓は畜産が成功した開拓です。奥野を後に最後の訪問地「成美開拓記念碑」県南水道の給水場脇です。成美とは戦後の開拓です。現在の栄西、栄東、中央、神谷二区(各行政区名)で、常磐線の東側一帯が成美開拓地でした。こちらも入植者も多く、苦労の連続でした。やはり、女化が原と同様、乏水であること、関東ローム層という酸性土壌であることから蔬菜栽培はうまくいきませんでした。そこで開拓組合は専業養鶏に変更、これが成功して、利益が出るようになったと言うことです。しかし、時代は高度成長期第二期にさしかかり、牛久は首都圏の一角となり、大きなうねりが訪れていました。組合はこの状況から組合を解散、土地区画整理事業にゆだねることになったということです。

 

 

 

 

| 17:53 | 投稿者 : ushiku |