成美開拓地の現在

 

久市役所4階から栄町方向です。今でこそ市の中枢機関が立ち並び、更に住宅地が立ち並ぶこの地域は、昭和24年に創設された成美開拓地でした。成美開拓組合長粟屋萬衛氏は農林大臣周東英雄より、農林省開拓機械化農場の委託を受けた場所でした。しかし、戦後間もない時期で、政府の財政も厳しかったはずです。その後農林省開拓機械化農場創設は「ドッチライン」により「時期尚早」との勧告を受け、第25回臨時帝国議会で5000万円の予算を否決され、農林省開拓機械化農場創設は悪夢と消えました。成美開拓は全体の運営を共同経営をとり、ソ連におけるコルホーズ(共同農場)、ソホーズ(国営経営農場)の形態に近い経営をとる予定でしたが、前述の構想の挫折と共に成美開拓の経営方針も大きく変更を余儀なくされ、土地の個人配分という結果となりました。その後、紆余曲折はありましたが、昭和34年から組合結束し、専業養鶏経営に取り組むことになりました。1戸500羽の目標を掲げ努力を重ねました。その後経営の拡大を図るべく、36年1月、成美養鶏開拓組合を結成。成美開拓9戸、近傍の朝岡開拓5戸、計14戸が大羽数養鶏団地(10万羽)の造成に乗り出しました。それから3年後、200万円の粗収入を上げるまでに成長。背水の陣の決断は成美開拓農業協働組合は専業養鶏の道をたどることになりました。この時期、高度成長は第一期から第二期へと進み、牛久市域は首都圏の一角となり、周辺を取り巻く環境は日一日と東京のベッドタウン化し、営農の続行が危ぶまれる状況となってきたので、町並びに周辺の住民の方々同意と協力により昭和46年勇断を以て区画整理事業に参画し、成美開拓農業協同組合も之を契機に解散する事となったのです。昭和55年に区画整理事業は無事完了しました。現在の栄町一帯は大規模養鶏団地だったのです。(成美開拓記念碑碑文から一部引用)

| 17:47 | 投稿者 : ushiku |