艱難辛苦の末成功した奥野開拓

 

奥原婦人ホーム前に立つ平沢千秋氏像と奥野開拓の碑です。明治以降、牛久には四つの開拓がありました。その中の戦後開拓の一つ「奥野開拓」です。その他、明治維新で失職した牛久城主山口氏の家臣が岡見が原で帰農した「岡見が原開拓」。明治の内務卿大久保利通の指示で行われた「女化開拓」。そして戦後には「奥野開拓」と「成美開拓」がありました。その中でも、満蒙開拓団が帰国してリーダーの「平沢千秋」氏による、艱難辛苦(かんなんしんく)の末、成功した開拓が奥野開拓です。

開拓は6ヶ年の歳月を経て昭和30年に完成。平沢組合長は畜産に力を入れ、乳牛の全戸飼養を奨励し、養鶏の試験飼育も行い採卵場も取り入れました。開拓30年を迎えた昭和55年には夏の畑作の他に乳牛飼養戸数20戸、飼育頭数1,000頭、搾乳日糧8,000キロリットル、養鶏は13 戸、羽数100,000羽、育雛20%で、採卵は月量3,500キログラム、その他養蚕業4戸、集繭量年5,000キログラムを出荷できるまでになったそうです。その後、農地改革を経て、牛久市域には四つの農協が誕生します。牛久村農協、岡田村農協、岡田村女化農協、奥野村農協。昭和29年・30年の町村合併で牛久町になり、農協の名から「村」が取れました。昭和47年、岡田農協、岡田女化農協、奥野農協が合併し、牛久町中央農協に改組。昭和61年、牛久農協と牛久町中央農協が合併し、牛久市農業協働組合となりました。平成13年8月、龍ヶ崎市農業協働組合と併合し現在に至ります。

| 19:43 | 投稿者 : ushiku |