牛久城主・由良国繁の創建した七観音八薬師の一つ正源寺

 

朝日に赤く染まる瑞雲山正源寺の山門です。この寺の縁起は、戦国の世も終わり近づく文禄元年(1592年・秀吉の天下統一の二年後)、当時の牛久城主由良国繁の母君、妙印尼輝子の発案があり「これまでの戦で無くなった、足高、牛久両城を枕に討死した岡見家一族とその家臣、北条家との戦いで金山・桐生両城で打死した由良家家臣、更には秀吉の小田原城攻めに加わって討死した由良家家臣、これら戦没勇士たちの後生善所のために、七観音を建立し、八薬師を建て、修羅の苦患(くげん)を救おうと思い立った、どうであろうか」と国繁に相談したところ、国繁は「尤もなる仰せなり」と、戦没勇士の菩提を弔うことになったといわれています。妙印尼は、各地を巡見の折に、みずから建立寄進の場所を選定したそうです。そして、牛久市域に七観音八薬師が創建されました。その一つの馬頭観世音菩薩は写真の右のお堂にありましたが、現在は刈谷町の正源寺別院に移されています。

由良国繁は太田金山城主(現群馬県)でしたが、小田原北条氏が常陸国の佐竹氏を攻撃するため、金山城と館林城の借用を申し出た際、兄弟(弟の長尾 顕長(あきなが))はこれを承知しましたが、これに反発した家臣は国繁らの母・妙印尼輝子を擁立して籠城したため、兄弟は小田原城に幽閉されてしまいます。秀吉の小田原攻めの際、母の妙印尼が前田利家の手先に属して小田原城を攻撃し、武功を収めました。この時の妙印尼輝子77歳で、これが「戦国時代最強の女丈夫」といわれています。秀吉の天下統一後、妙印尼の武功が認められ、国繁兄弟は母の功績のお陰で、金山城に代えて牛久領の5400石を秀吉から拝領することになりました。ただし、秀吉からの朱印は国繁宛ではなく、母妙印尼輝子宛てでした。国繁は慶長16年、61歳で逝去。牛久領は息子の貞繁に引き継がれましたが、貞繁も若くして病没。貞繁に子がいなかったため由良氏の牛久藩は僅か二代でお家は断絶となりました。

 

| 18:14 | 投稿者 : ushiku |