明治15年、明治天皇牛久行幸で整備された臨幸道

 

ここは一般国道6号線です。場所は竜ヶ崎方向から牛久に向かっている下り車線です。左側が牛久沼。ここは今でこそ重要な幹線道路として、多くの車両が日々通過しています。この道は明治17年12月に明治天皇が牛久行幸が決定されたため、その二年前、明治15年「臨幸道」の整備に着手、当時の水戸道中(竜ヶ崎の若柴宿)は狭小で起伏が多く、馬車の通行には大きく支障がありました。そこで、現竜ヶ崎市小通幸谷村から牛久村までの新道(現国道6号)整備に着手することになったのです。その責任者となったのが、八か村連合戸長に就任したばかりの小川賢勝(小川芋銭の父)でした。この臨幸道整備に携わったのは牛久・岡見・柏田・田宮・城中・新地・遠山・庄兵衛新田などの村々からあわせて529名が動員されました。

整備に着手する前、陸軍参謀本部測量課が明治14年(1881)4月、牛久市域一帯の調査を行い、結果は「偵察録」として残されていいます。牛久市域は4月から7月にかけて、陸軍歩兵少尉雨宮知剛、陸軍歩兵少尉三戸信義が担当。雨宮少尉の記録によると、「陸前浜街道ハ東京ヨリ茨城県庁ニ達シ、延テ陸前地方に至ル国道ナリ。幅員4間(中略)牛久駅ニ人力車二十九輌アリ。牛久駅ヨリ土浦町迄乗合馬車アリ。牛久ヨリ牛久沼ニ沿ヒ、宮和田駅ニ達スル近カ道アリ(街道ヨリ十五町近シト)。ただし雨後悪泥トナル」。

牛久沼畔は地盤が悪く、大量の土砂が必要となり、その土砂は現在の牛久城址の本丸跡から採取されたと伝えられています。

 

| 15:27 | 投稿者 : ushiku |