春分を前に蒸気霧が発生

 

今朝5時55分の田宮西近隣公園です。この時期には珍しい蒸気霧が見られました。朝日に当たって赤く染まった霧に見えました。まるで温泉地の湯元のような光景でした。蒸気霧とは、​池や川から湧き上がっているように見える蒸気を蒸気霧と言います。暖かく湿った空気が冷たい空気と混ざって発生する霧です。冬に息が白くなる・お風呂で湯気は発生する原理と同じで冷え込んだ早朝などは、外気より池や川の水温の方が高くなると暖かい水面上に冷たい空気が入り込み、水面から蒸発がおきその水蒸気が冷たい空気に冷やされて発生するもので冬季に良く見られます。
 

| 16:27 | 投稿者 : ushiku |
牛久でサンピラー出現

 

今朝は大変珍しい自然現象が見られました。それは「太陽柱」または「サンピラー」と呼ばれる現象です。朝夕など太陽高度が低いとき,太陽を中心に垂直方向の上下に伸びる光の筋。光柱ともい言います。大気中の氷の結晶がほぼ水平に並んでいる場合に,太陽光が氷の結晶の上下の面で反射するために柱状に白く輝いてみえます。普通は太陽高度が 10°未満のときに出現する現象です。(午前6時2分撮影)

| 08:42 | 投稿者 : ushiku |
寒桜が八分咲き

 

牛久市内で八分咲きの桜が見られます。ここは、ひたち野西近隣公園の寒桜です。写真右が学園西大通りです。ピンク色のきれいな桜が見頃です。ピンク色の桜は、寒桜によく似ているのは河津桜で、寒緋桜はピンクが濃い色をしています。

寒桜は、早咲きで知られる河津桜よりも開花は早く、葉の展開に先立って花をつけます。花序は散形状をしています。散形花序というのは、枝先からたくさん花柄が出て、その先に1個つずつ花がつく花序のことです。花は一重で、花径15〜25mmくらいです。花の色は淡いピンク色をしています。来週末には東京の桜の開花宣言が出そうですが、牛久のソメイヨシノはもう少し遅れるかもしれません。今年は牛久シャトーで「さくら祭り」が行われるそうです。シャトーの桜は、大半がソメイヨシノですが、黄色い桜「鬱金」と緑色の桜「御衣黄」も見逃せません。

| 16:06 | 投稿者 : ushiku |
花粉光環現象をキャッチ

 

きれいな日没時に「花粉光環」をキャッチ。空にスギ花粉などの球形に近い花粉粒子が飛散しているときに、花粉粒子が光を回折して発生するこの時期特有の現象「花粉光環」と言います.昨日は南岸低気圧が通過したため、まとまった雨を降らせました。今日は移動性高気圧が日本列島を通過したため暖かな南風が吹き込み、スギの雄花が爆発しました。今日は朝から大量飛散となり、スギ花粉は雨上がりの翌日に晴れて乾燥して来ると大量飛散の絶好の条件となります。

| 18:03 | 投稿者 : ushiku |
市道・城中田宮線の全線開通が心配

 

今日も「木の芽起こし」の雨になりました。今日はほぼ一日雨、明日も雨模様の一日になりそうです。草木には大事な雨ですので、この時期はしっかり降ってもらわなければなりません。今日の日曜日は雨で外出を控えたのでしょうか、道路は比較的空いていました。この場所は県道46号線(野田牛久線)近隣公園東信号です。この県道の500m手前は、3年前に旧石器時代の遺跡が発掘された場所です。その上に46号線のバイパスが出来て、便利になり交通量は増えました。そして、現在この信号は朝夕大渋滞の場所になっています。奥側が国道6号線で手前側が旧茎崎です。ここで心配なのが、市道城中田宮線(信号の左右)がこの信号まで開通(現在はこの信号の右約500mが未着工区間)し、更に国道6号牛久土浦バイパスが城中の大手門まで開通すると、6号からの車が城中田宮線に押し寄せ、この信号が更に大渋滞になることが心配されます。

| 17:37 | 投稿者 : ushiku |
町に中に今も残る民俗遺産

 

住宅街の中に今も残る「庚申塚」。ここは第二つつじヶ丘に今も残されている貴重な民俗遺産です。庚申とは、庚申(かのえさる)の日、仏家では青面金剛(しょうめんこんごう)、または帝釈天(たいしゃくてん)。神道では猿田彦神を祭り、徹夜する行事です。この夜眠ると、そのすきに人間の体内にいる三尸(さんし)の虫が、体内から抜け出て、天帝にその人の悪事を告げるといい、また、その虫が人の命を短くするともいわれています。庚申の夜、村人や縁者が集まり、経などを読誦し、共食・歓談しながら夜を明かしたそうです。寝ずに朝を迎えれば、三尸の虫は体をい抜け出せず、天帝に告げ口されず安泰というわけです。これは、娯楽の少なかった江戸時代以来しだいに社交的なものになったと言われています。

庚申塚には庚申塔が立っていますが、一年に6回やってくる「庚申待」を真面目に3年続け、18回庚申待をやり遂げた記念に庚申塔を立てたと言われています。

 

 

| 18:43 | 投稿者 : ushiku |
URの拠点事務所から牛久市の施設に

 

牛久市の表玄関と化した「ひたち野うしく駅」その東口の前にある綺麗なビル。バスターミナルの正面にある6階建てのビル「ひたち野リフレ」。 このビルはもともと、ひたち野うしくエリア(人人ニュータウン)を開発してきた「UR都市機構」が拠点事務所として使っていたビルです。ビル自体は1998(平成10)年に竣工しましたが、外装にはデザイン性の高い樹脂鋼板、紬パネル、アルミパネルを多用。10年以上を経た今も時代の最先端を感じさせるデザインです。リフレプラザとして多くの市民が利用しています。子育て広場、会議室、催事場、フリースペース等々。

| 17:59 | 投稿者 : ushiku |
万博中央駅跡記念碑

 

ひたち野うしく駅の西口に「万博中央駅跡記念碑」があります。ここは1985年のつくば万博(国際科学技術博覧会、科学万博、つくば '85)が行われた際の「万博中央駅」でした。期間中の臨時駅として賑わいました。その跡地に記念碑が建っています。

碑文には、

 飛翔 牛久町長 大野正雄書
かつてここに、万博中央駅があった。国際科学技術博覧会"科学万博-つくば85"が、筑波研究学園都市で開催されたのは、1985年であった。我が国の科学技術のメッカ筑波研究学園都市、および我が筑波の名を内外に高からしめるため、竹内藤男県知事、横田栄一県議会議長らが中心となって運動した全県民の熱意が、実を結んで実現したもので、「人間・居住・環境と科学技術」のテーマのもと、科学の先端技術を駆使して出展されたパビリオンは、国内、国外から80を数えた。3月17日から9月16日までの六か月の開催期間中に、会場を埋めた観客は2千万人を超える盛況で、このうち380余万人が牛久町大字中根、宇鳴牛、原田、兎谷津地内に、臨時に設置された常磐線万博中央駅を利用した。万博中央駅の設置面積は9.8ヘクタールに及び、さらに幅員34メートルの学園西大通り線を通して会場まで、日本で初めて連節バス・スーパーシャトルが運行し、観客輸送の主役を担った。
 万博中央駅はまさに、科学万博-つくば'85の表玄関としての役割を果たし、牛久町の面目を遺憾なく発揮した。世紀の祭典成功の一翼を担った"万博中央駅"の栄光を称えるため、ここに碑を建立して、永く記念とするものである。
昭和61年5月8日  万博中央駅跡記念碑建立委員会

| 17:07 | 投稿者 : ushiku |
「薄氷」(うすらい)と呼ばれる春先の氷

 

昨日は東京や横浜で春の淡雪になったようです。この時期は、気まぐれの天気が繰り返しやってきます。まさに三寒四温です。この時期の陽気は日一日と暖かさを増し、もう氷を見ることがない、という陽気が続いた後に、突然冬が戻り、薄っすらと氷が張ることがあります。「薄氷」(うすらい)と呼ばれる春先の氷。名前の通り、薄く弱々しく、儚く砕け散る運命にある氷です。繊細で神秘的な模様を見せる氷で、清少納言が「泡に結べる紐」と例えた自然美の一つです。こんな冬の情景ももうすぐ見られなくなります。後四日で二十四節気「雨水」です。春本番が間も無くやってきます。

| 13:36 | 投稿者 : ushiku |
成美開拓地の現在

 

久市役所4階から栄町方向です。今でこそ市の中枢機関が立ち並び、更に住宅地が立ち並ぶこの地域は、昭和24年に創設された成美開拓地でした。成美開拓組合長粟屋萬衛氏は農林大臣周東英雄より、農林省開拓機械化農場の委託を受けた場所でした。しかし、戦後間もない時期で、政府の財政も厳しかったはずです。その後農林省開拓機械化農場創設は「ドッチライン」により「時期尚早」との勧告を受け、第25回臨時帝国議会で5000万円の予算を否決され、農林省開拓機械化農場創設は悪夢と消えました。成美開拓は全体の運営を共同経営をとり、ソ連におけるコルホーズ(共同農場)、ソホーズ(国営経営農場)の形態に近い経営をとる予定でしたが、前述の構想の挫折と共に成美開拓の経営方針も大きく変更を余儀なくされ、土地の個人配分という結果となりました。その後、紆余曲折はありましたが、昭和34年から組合結束し、専業養鶏経営に取り組むことになりました。1戸500羽の目標を掲げ努力を重ねました。その後経営の拡大を図るべく、36年1月、成美養鶏開拓組合を結成。成美開拓9戸、近傍の朝岡開拓5戸、計14戸が大羽数養鶏団地(10万羽)の造成に乗り出しました。それから3年後、200万円の粗収入を上げるまでに成長。背水の陣の決断は成美開拓農業協働組合は専業養鶏の道をたどることになりました。この時期、高度成長は第一期から第二期へと進み、牛久市域は首都圏の一角となり、周辺を取り巻く環境は日一日と東京のベッドタウン化し、営農の続行が危ぶまれる状況となってきたので、町並びに周辺の住民の方々同意と協力により昭和46年勇断を以て区画整理事業に参画し、成美開拓農業協同組合も之を契機に解散する事となったのです。昭和55年に区画整理事業は無事完了しました。現在の栄町一帯は大規模養鶏団地だったのです。(成美開拓記念碑碑文から一部引用)

| 17:47 | 投稿者 : ushiku |