黄金に染まる観音寺

 

久野町の観音寺が黄金に輝いています。市民の木に指定された樹齢300年の銀杏の巨木の黄葉が終盤を迎えました。寺の境内は幾重にも降り積もったイチョウの葉でまさに黄金色です。天正14年(1586)1月、豊臣秀吉が時の天皇、正親町天皇に茶を献じるため京都御所の小御所に組み立て式の黄金に染まった茶室を運び込んだといわれる歴史がありますが、観音寺の黄金は人為的に作ったものではなく、自然の成せる業といえるでしょう。この美しい景観はそろそろ見納めになりそうです。イチョウの枝には僅かな葉が残るだけです。ご覧になる方、急いでください。

| 14:19 | 投稿者 : ushiku |
小さな小径の歴史・巡見道から臨幸道へ

 

細い山道のようなこの道は、市道9号線です。この道の正面は県道48号線の旧道です。車一台がやっと通れる細い道。町名は柏田町です。この道には古い歴史がありました。江戸時代には「巡見使」が使った「巡見道」として整備された道でした。巡見道とは、江戸時代に全国の幕府領や私領の支配の実情をみるために、幕府から派遣された視察官が全国を巡見した道でした。五代将軍徳川綱吉以降は将軍の代替りの際に派遣されることが多く、全国を幾つかのブロックに分け、各ブロック三名ずつの派遣が原則でした。八代将軍徳川吉宗の代替り発遣以後は幕府領・私領別々に編成され、幕府領は御料所国々巡見使、私領は諸国巡見使とよばれました。その巡見使が歩いた道でした。その後時代は変わり、明治に入り、巡見道としての役割は終えましたが、明治17年(1884)11月27日〜12月10日の間、女化が原において陸軍砲兵大隊の大砲射的訓練が行われました。この期間中の12月6日〜9日に明治天皇の天覧がありました。7日利根川を渡った明治天皇を人見寧茨城県令(知事)が奉迎し先導、午前11時55分牛久村到着。飯島左衛門宅を行在所としました。そして翌日8日、明治天皇の馬車は主に旧巡見道を馬車で女化に向かいました。水戸街道をお立ちになった天皇のご一行は、現金乃台カントリークラブの間を通り、この市道9号線に入り、現在の県道48号線を南下して女化神社に到着したそうです。明治天皇がお通りになった道を「臨幸道」と呼ばれました。

 

| 17:52 | 投稿者 : ushiku |
黄金に輝く古刹、観音寺

 

久野町の古刹、観音寺の黄葉が始まりました。威徳山福聚院観音寺は、「花曼荼羅のお寺」と言われ、本尊に十一面観音を祀る天台宗の古刹です。境内には、四季折々の花が咲き乱れ、6月の紫陽花、そして、秋には市民の木のイチョウ(No.16 樹齢300年)の黄葉が素晴らしく、イチョウの落ち葉を引き詰めたような境内は黄金色に輝き眩しいばかりです。遅れていたイロハカエデも紅葉が始まりました。

| 15:41 | 投稿者 : ushiku |
江戸時代から栄えた橋

 

小野川に架かる豊年橋から東の方向を撮影しました。写真左が小坂団地方向。右が上太田町です。方角的には左が北、右が南になります。小野川の橋は、県道48号線の架かる橋から東に順に、結束町に架かる小さな橋(名称不詳)で、人間一人しか渡れない小さな橋、次が写真の「豊年橋」です。江戸幕府の八代将軍吉宗の時代に江戸の燃料供給基地(御林)が牛久に設けられ、小野川水運が始まりました。この時代には、豊年橋は架けられていなかったと思いますが、この川の流域には「小野川通伝馬造茶船」という田舟を使った舟運の鑑札をもらった農家が河岸をつくり、年貢米、薪炭の江戸直納の舟運の基地として活気があったようです。そして、時代は経過して、明治の初期、農閑期に「お伊勢詣」の際、岡見や小坂の住民がこの橋を渡って、竜ヶ崎に入り、利根川を渡って千葉から東京に向かいました。すべて徒歩による長旅でしたが、途中宿泊しながら東京を目指し、新橋から横浜まで、開通したばかりの汽車に乗って、横浜から東海道の旅が始まりました。その日記が最近、岡見の旧家から見つかりました。詳細の日記で、全行程でかかった経費や宿泊地が詳細に記されています。そして、この橋は小野川左岸の村々の人たちが買い物(竜ヶ崎貝原塚方面)に、旅に足繁く使われた大事な橋でした。

 

| 20:12 | 投稿者 : ushiku |
道標から読み解く牛久の歴史

 

牛久を通過する、通称・鎌倉街道(市道7号線、昭和53年7月1日市道に認定)の小さな十字路の一角に御影石でできた道標を見つけました。歴史的な古さは感じませんでしたが、一部牛久の歴史を語るには貴重な遺跡と感じました。

道標には、(東)役場、井ノ岡、月出里。(西)岡見、柏田、牛久道。(南)泉、貝原塚、羽原(いずれも竜ヶ崎市)。(北)福田、小池、実穀(いずれも阿見町)とありました。ここで、東に書かれている「役場」とは、奥野村役場と思われます。奥野村は昭和30年2月10日、牛久町に編入合併し、新たな牛久町としてスタートしています。このことから考えますと、道標の建立時期は昭和30年以前のものと考えられます。

 

| 16:51 | 投稿者 : ushiku |
将軍足利義政の家臣、川司孝信が建立した神社

 

東洋大牛久高校の隣、鬱蒼とした杉木立の奥に「柏田神社」があります。正月や祭礼の時以外はほとんど訪れる人もいない静かな神社です。神社の創建は、807(大同2)年、鹿島神宮の分霊を勧請したとされます。祭神は武甕槌命、経津之命、天児屋根命。 御神体は、十一面観音、阿弥陀如来、薬師如来の銅仏三躯の懸仏(かけぼとけ:御正体ともいいます)といいます。周囲には豊かな森が残されています。 長禄年間(1457〜60年)、天候不順が続いたことから、将軍足利義政の家臣、川司孝信が1460(長禄4)年、祠を建てて懸仏を祀り、天候回復を祈願したとされます。 社殿は1987(昭和62)年5月4日の不審火で焼失。1989(平成元)年4月5日再建されました。市内には歴史的な神社仏閣が埋もれています。

 

| 17:22 | 投稿者 : ushiku |
一般国道468号線って知ってる?

 

久しぶりにスカイブルーの空が広がりました。今日の気圧配置を見ますと、緩やかな西高東低の気圧配置になっているため、全国で気温を大きく下げました。今朝6時の牛久の気温は6.5度と今年最低を記録しました。きれいに田起こしの終わった水田の彼方に、国道468号線が見えます。468号線と言いますとなじみがないかと思いますが、圏央道の正式番号です。圏央道は「高規格幹線道路」(一般国道の自動車専用道路)と言う位置づけで高速道路ではないのです。従って国道の番号が振られています。平成29年2月26日(日)に境古河ICとつくば中央ICが開通し全体の9割が開通したことになり、残るは神奈川県と千葉県の一部を残すばかりとなりました。とても便利になりましたが、トイレが少ないと言う声が多く、江戸崎PAと菖蒲PAの間は「魔の空白区間」となっています。そして、このたび、この二つのPAの中間に坂東PAの建設が検討されています。

| 15:13 | 投稿者 : ushiku |
鎌倉街道の牛久起点

 

幻の古道といわれる鎌倉街道の調査を行いました。鎌倉街道は幕府の置かれた鎌倉から常陸の国に通じる「下の道」といわれるルートで、利根川を渡って利根町、竜ヶ崎と進みますが、小野川を渡るあたりから街道が途切れていて、詳細がわかりません。そこで、明治14年陸軍省測地部の作成した「迅速即図」の牛久村を使って、牛久に入ってからどのようなコースを辿ったのかを現地踏査しました。国道408号の島田町(信号)付近が竜ヶ崎との接続点ですが、408号から小野川までの道がありません。迅速即図によれば、現在の島田町信号から西に400mのところの(GS)から北西に伸びる山道を見つけました。尚、このGSから南に竜ヶ崎に通じる道があります。408からこの道に入り北西に進むと、長沼りんご園を左に見て、そのまま進むと、奥野生涯学習センターに出ます。そのまま進むと山一味噌(牛久二中入口信号)に出ます。ここから小坂団地北側を通り、県道48号線につながる市道が現在の鎌倉街道といわれています。この結果からしますと、牛久二中入口信号から東のカントリーラインまでは鎌倉街道ではないと結論づけました。

 

| 16:56 | 投稿者 : ushiku |
鎌倉時代の幻の古道

 

牛久の幻の古道「鎌倉街道」の奥野地区です。鎌倉街道とは、1192年、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、支配力強化のために鎌倉と東国の各地域を結ぶ道路整備に力を注ぎ、次々と道路網が建設されました。そして陸奥などの地方を結ぶ交通路で、いわゆる鎌倉幕府の御家人が「いざ、鎌倉」と馳せ参じた道であり、鎌倉時代から戦国時代までの関東武士の栄枯衰退の歴史を物語る道です。しかし実態としては詳細な道筋や姿はあきらかでなく「幻の道」と呼ばれています。牛久を通る鎌倉街道は、国道408号島田町付近から現在の鎌倉街道を西に進み、県道48号線から阿見町に至るコースです。富岡八幡宮(鎌倉幕府)から北に延びる街道が制定されました。

上道(かみつみち):鎌倉から化粧坂を越え、武蔵西部を経て高崎、信濃、越後へ抜ける。

中道(なかつみち):鎌倉から巨福呂坂を通り、武蔵国東部を経て下野国から奥州へ至る。

下道(しもつみち):鎌倉から朝夷奈切通を越え、武蔵国東側の東京湾沿いを北上して常陸へ。

牛久の鎌倉街道は、「下道」(しもつみち)です。この街道の歴史を知らずに利用している方が大半でしょうか。

 

| 18:04 | 投稿者 : ushiku |
秋分の使者・曼珠沙華

 

間もなく秋分です。牛久市域の稲刈りもほぼ終わり、田んぼの畦にヒガンバナ(曼珠沙華)が本格的な秋の到来を告げています。秋の田んぼとヒガンバナは日本の原風景でした。昔の人は、ヒガンバナを毒草であるが故に、縁起の悪い名前を敢えて付けたようで、 死人花、地獄花、葬式花等々、本当に縁起の悪い名前を付けて、植える場所も墓地などが多かったようです。しかし、飢饉などで食料が不足したときにヒガンバナの球根を掘り起こし、摺りおろして、毒性分を水で晒し最後に残ったデンプンを食べたと言われています。このため、「救荒植物」として、別の意味で大切にされてきた珍しい植物です。(中根小学校付近)

| 16:03 | 投稿者 : ushiku |