江戸時代の大動脈・水運

 

一級河川小野川の中流域です。小野川はつくば市小野崎に源を発し南東へ流れ、稲敷市古渡で霞ヶ浦に注いでいます。総延長36.45km。1979年、小野川を稲荷川につなぐ人工河川が完成し分流が始まり、稲荷川から牛久沼にも流入しています。これは筑波研究学園都市の建設に伴い都市排水を考慮してのことでした。小野川は今でこそ農業用水に利用されるだけですが、江戸時代は小野川流域に薪炭林(幕府の命令で「御林」・天領)が設けられたアカマツ林が広がっていました。小野川流域のアカマツは薪炭林として、江戸のエネルギーの供給基地として大きな役割を担っていました。牛久市域からは「伝馬造茶船(でんまつくりちゃぶね)」という田舟ほどの小型の船で、搬出され、現稲敷市の伊佐津で高瀬舟に積み替えられて江戸へ送られました。当地で集められた薪は付近の農作物などと共に小野川から霞ヶ浦・横利根を経由して利根川、関宿から江戸川を経由して江戸まで舟で運ばれていました。この水運を「小野川水運」とよび、利根川については「利根川舟運」と呼ばれ、物資搬送の大動脈となっていました。

 

 

 

| 17:18 | 投稿者 : ushiku |
小野川水運で栄えた村

 

左手が小坂町方面、右手が上太田町に架かる「豊年橋」です。下の川は一級河川「小野川」。水源地はつくば市小野崎の味城(みじょう)跡と洞峰沼(現在は洞峰公園)で、稲敷市の古渡まで、つくば市、牛久市、稲敷市の三市を流れる川です。この川が注目されることになったのは、江戸時代前期、八代将軍吉宗の時代でした。平和な世の中が訪れると、江戸の人口は急増。人口百万の大都市になりました。この時代の小野川は、霞ヶ浦経由で、利根川を上り関宿から江戸川に入り、江戸迄の水路が完成していました。この大土木工事が「利根川の東遷」でした。幕府はこの水運を利用したエネルギー政策を打ち出し、江戸を取り巻く村々に、「御林」(おはやし)の植林を命じました。植林されたのは「赤松」で、成長した暁には薪炭として江戸直納を義務づけたのでした。牛久市域では小さな河岸が幾つももうけられ、河岸の名称も設置した村人の名前が付けられ、「・・・河岸」と呼ばれるようになりました。豊年橋付近には雑木林も多く、他の地域よりも早く薪炭を搬出が出来た筈です。河岸から「伝馬造茶船」(でんまつくりちゃぶね)という、小野川に適した作りになっていた小型の舟で幕府から鑑札をもらい、船主となっていきました。この水運を「小野川水運」と呼び、薪炭の他、年貢米も運び出されました。結束町などから積み出された薪炭は、伝馬造茶船で現稲敷市の「伊左津河岸」まで、運び、ここから高瀬舟(当時最大の舟で、500石船とよばれ、佐原から回航)に積み替えられ、古渡から霞ヶ浦に出て、横利根を通り利根川に出ました。利根川からは北上し、関宿から江戸川に入り、行徳を過ぎると、幾つもの運河を進みました。新川と小名木川の接続点には中川舟番所(関所)があり、検問を受けて小名木川を大川(隅田川)まで進み、年貢前は「蔵前」の河岸。薪炭は「御竹蔵」に荷下ろしされました。片道10日以上もかかった大変な航海だったようです。

| 16:38 | 投稿者 : ushiku |
お伊勢参りに通った道だった

 

ここは小坂と女化を結ぶ山道です。昼なお暗い市道です。対向車には譲り合いの精神が無ければすれ違いは出来ません。現在では、地元の人しか利用しないと思われます。この道は、明治時代に入り、牛久市域から、竜ヶ崎貝原塚等に買い物などに利用された主要道でした。また、明治初期には小坂から、お伊勢参りに出かけた村人が通った道でもあります。当時は鉄道も、新橋、品川簡しか通っていませんでした。小坂からスタートした村人は、この道を通り(手前が竜ヶ崎)竜ヶ崎を通り、利根町から利根川を渡り、千葉県の印西を通過して、日本橋まで出たそうです。東京に着いたのは出発してから二日目で、日本橋で二日目の宿をとり、三日目で、新橋から横浜まで陸蒸気に乗ったそうです。横浜で降りた一行は東海道を西に進んだと言うことです。今では忘れられた山道にも村の歴史がありました。

| 20:40 | 投稿者 : ushiku |
牛久の桜の新名所・牛久大仏

 

牛久の桜の名所として定着した「牛久大仏」に行ってきました。最近の報道番組にもたびたび登場する牛久大仏の桜。すでに散り始めていますが、まだまだ見られます。特にソメイヨシノとシバザクラのコントラストが見事でした。

昨日、日本列島を覆っていた移動性高気圧は東に逸れて、代わって低気圧が近づいています。このため、今日は一日曇り空でしたが、気温も上がり、凌ぎやすい一日でした。桜前線は関東を制覇し、東北地方に進んでいます。今年の桜は本当に長い間楽しませてくれました。古くから日本人は、桜の満開だけを待ち望んだわけではありません。蕾に気を掛け、7分咲きにも目を細め、散り終えてからも余韻を楽しむ心がありました。香り立つ桜の花を「盛りの花」と呼び、満開の桜が連なる様子を「花の雲」などなど、多くの呼び方がありました。そして、葉に先立って咲く花を「葉(歯)なし」に掛けて「姥桜」(うばざくら)と呼ぶユーモアがありました。

| 17:03 | 投稿者 : ushiku |
源頼朝が進軍した鎌倉街道

 

ここは県道68号線(国道408号正直町信号から阿見町方面)と通称鎌倉街道の交差点、牛久二中入り口付近です。交差点から東に数十メートル、右折した道です。右が山一味噌、左奥が奥野生涯学習センターです。この細い道は市道2154号線です。この道にとても価値があります。改めて岡見町から、小坂団地の北側を通り、牛久二中信号までを、通称鎌倉街道と言っています。しかし、牛久二中交差点から東に進む道は鎌倉街道ではありません。市道7号線と言い、明治期には無かった道です。昭和53年に市道に指定されました。さて、写真の道ですが、市道2154号線とは、幻の古道鎌倉街道なんです。この道を直進しますと長沼りんご園、さらに進みと国道408号にぶつかります。この道が旧鎌倉街道です。鎌倉街道は鎌倉時代からあった道で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の時代にはありました。源頼朝は鎌倉に幕府を開くと、軍事目的のみならず年貢やその他物資輸送のため鎌倉へ通じる道路を整備しました。鎌倉街道には主道が3つあり、上ッ道、中ッ路、下ッ道と呼ばれている三本の道。いずれも鎌倉から武蔵国に向かい関東豪族の居館へ通じていました。牛久の鎌倉街道は、下総国府(現在の千葉県市川市)から常陸国府(石岡市)に通じる道路の一部であったと考えられており、「下ッ道」にあたります。源頼朝はこの道を金砂城の佐竹氏を討伐するために通ったとされます。

| 19:57 | 投稿者 : ushiku |
牛久の昔話の主人公たち

 

ひたち野うしく駅の東西に、なにやら不思議な銅像があります。左は東口の「八兵衛さん」。右が西口の「八兵衛さんの村の仲間」です。これは、牛久に伝わる昔話、「酒島の霊泉」に出てくる主人公です。下根中学校と圏央道の間に広がる田んぼの中にある五十瀬(いそせ)神社。境内には「酒島村霊泉之碑」があり、酒がわき出たという言い伝えがあります。酒島村の名前は鎌倉時代に同地を河内郡酒島郷といったのが由来とされ、その昔、暴れ川として恐れられていた付近の小野川から流れてきた御輿を村一番の働き者の八兵衛が見つけ、神社の境内に運び込みほこらを造って祭ったという話から始まります。朝晩欠かさずお参りし泉の水を病気がちだった祖父に飲ませたところ病気が回復。霊験ある神社の泉としてうわさが村中に広まり、村人が神社に集まってみると泉の水は酒に変わっていたということです。大喜びした村人たちはいつしか泉のことを「酒島の霊泉」と呼び、参拝者や酒を目当てに来る人が増え一段と村は活気づいたという。伝説とされるみこしは近世になって造り替えられ、酒がわき出たとされる井戸も干上がっています。境内の裏手にある「酒島村霊泉之碑」は正月にしめ縄を飾り、7月の夏祭りではみこしが担がれます。かつてのにぎわいはないものの、ひたち野うしく駅前のロータリーには往時をしのばせる村人たちの酒盛りの様子が銅像となって残っています。

| 19:23 | 投稿者 : ushiku |
牛久陣屋門?

 

この門は市内某所の個人宅の門です。ネット等に「牛久陣屋跡」という記載があり、このお宅にお邪魔してお話を伺ってきました。写真や住所まで書かれていて、びっくりしていると言うことでした。城中の河童の碑前の牛久陣屋は明治維新後速やかに取り壊されたとされていますが、その時の陣屋門の材料をこちらに移築された可能性があります。ある文書によりますと、明治初期にこのお宅の先代が拝領したものとされています。牛久陣屋は牛久藩二代藩主「山口弘隆」(1万石)が寛文9年(1669)に構築されたものです。その後、文久3年(1863)に改築された陣屋門となっています。陣屋門の屋根は昭和30年代中頃に茅葺きから瓦に葺き替え。左右の塀も新しい材料にしたそうです。昔のままの材料は4本主柱(欅)のみとのことです。門構えは陣屋門の格式を保っていますので、牛久陣屋なのでしょう。さらに、この門が牛久陣屋門とされる所以は地元の方々がこの辺の地名を「陣屋」と言っているそうで、これが大字なのか小字なのかはわかりませんが、ここが本当の陣屋門であった証かもしれません。

| 17:36 | 投稿者 : ushiku |
国道468号線とは?

   

 

国道468線、通称首都圏自動車連絡道(圏央道)です。国道468号とは圏央道の正式番号です。圏央道は「高規格幹線道路」(一般国道の自動車専用道路)と言う位置づけで高速道路ではないのです。従って国道の番号が振られています。平成29年2月26日(日)に境古河ICとつくば中央ICが開通し全体の9割が開通したことになり、残るは神奈川県と千葉県の一部を残すばかりとなりました。とても便利になりましたが、トイレが少ないと言う声が多く、江戸崎PAと菖蒲PAの間は「魔の空白区間」となっています。そして、このたび、この二つのPAの中間に坂東PAの建設が検討されています。現在では交通量も増え、まさに首都圏自動車連絡道になっていますが、高速道路になりきれない弱みがあるようです。

 

 

| 20:14 | 投稿者 : ushiku |
源頼朝が進軍した雪の鎌倉街道

 

雪の山道。ここは牛久の鎌倉街道入口付近です。鎌倉街道とは、鎌倉時代に整備された道で、鎌倉幕府を開いた源頼朝が整備、保守しつつ、政治・経済・交通等を通して関東を支配していった主要な道でした。鎌倉街道は3本あり、牛久を通るのはその一つ「下ツ道」と呼ばれる道で、鎌倉から東京湾沿いを通り、千葉から利根川を渡り、利根町、竜ヶ崎、そして島田村から牛久に入りました。

この道は金砂城の戦い(かなさじょうのたたかい)で源頼朝が進軍した道とされています。この戦は治承4年(1180)11月22日、常陸国金砂城(現常陸太田市金砂郷地区)における源頼朝率いる軍と常陸佐竹氏との戦いです。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の内の一つです。

| 16:12 | 投稿者 : ushiku |
艱難辛苦の末成功した奥野開拓

 

奥原婦人ホーム前に立つ平沢千秋氏像と奥野開拓の碑です。明治以降、牛久には四つの開拓がありました。その中の戦後開拓の一つ「奥野開拓」です。その他、明治維新で失職した牛久城主山口氏の家臣が岡見が原で帰農した「岡見が原開拓」。明治の内務卿大久保利通の指示で行われた「女化開拓」。そして戦後には「奥野開拓」と「成美開拓」がありました。その中でも、満蒙開拓団が帰国してリーダーの「平沢千秋」氏による、艱難辛苦(かんなんしんく)の末、成功した開拓が奥野開拓です。

開拓は6ヶ年の歳月を経て昭和30年に完成。平沢組合長は畜産に力を入れ、乳牛の全戸飼養を奨励し、養鶏の試験飼育も行い採卵場も取り入れました。開拓30年を迎えた昭和55年には夏の畑作の他に乳牛飼養戸数20戸、飼育頭数1,000頭、搾乳日糧8,000キロリットル、養鶏は13 戸、羽数100,000羽、育雛20%で、採卵は月量3,500キログラム、その他養蚕業4戸、集繭量年5,000キログラムを出荷できるまでになったそうです。その後、農地改革を経て、牛久市域には四つの農協が誕生します。牛久村農協、岡田村農協、岡田村女化農協、奥野村農協。昭和29年・30年の町村合併で牛久町になり、農協の名から「村」が取れました。昭和47年、岡田農協、岡田女化農協、奥野農協が合併し、牛久町中央農協に改組。昭和61年、牛久農協と牛久町中央農協が合併し、牛久市農業協働組合となりました。平成13年8月、龍ヶ崎市農業協働組合と併合し現在に至ります。

| 19:43 | 投稿者 : ushiku |