源頼朝が進軍した雪の鎌倉街道

 

雪の山道。ここは牛久の鎌倉街道入口付近です。鎌倉街道とは、鎌倉時代に整備された道で、鎌倉幕府を開いた源頼朝が整備、保守しつつ、政治・経済・交通等を通して関東を支配していった主要な道でした。鎌倉街道は3本あり、牛久を通るのはその一つ「下ツ道」と呼ばれる道で、鎌倉から東京湾沿いを通り、千葉から利根川を渡り、利根町、竜ヶ崎、そして島田村から牛久に入りました。

この道は金砂城の戦い(かなさじょうのたたかい)で源頼朝が進軍した道とされています。この戦は治承4年(1180)11月22日、常陸国金砂城(現常陸太田市金砂郷地区)における源頼朝率いる軍と常陸佐竹氏との戦いです。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の内の一つです。

| 16:12 | 投稿者 : ushiku |
艱難辛苦の末成功した奥野開拓

 

奥原婦人ホーム前に立つ平沢千秋氏像と奥野開拓の碑です。明治以降、牛久には四つの開拓がありました。その中の戦後開拓の一つ「奥野開拓」です。その他、明治維新で失職した牛久城主山口氏の家臣が岡見が原で帰農した「岡見が原開拓」。明治の内務卿大久保利通の指示で行われた「女化開拓」。そして戦後には「奥野開拓」と「成美開拓」がありました。その中でも、満蒙開拓団が帰国してリーダーの「平沢千秋」氏による、艱難辛苦(かんなんしんく)の末、成功した開拓が奥野開拓です。

開拓は6ヶ年の歳月を経て昭和30年に完成。平沢組合長は畜産に力を入れ、乳牛の全戸飼養を奨励し、養鶏の試験飼育も行い採卵場も取り入れました。開拓30年を迎えた昭和55年には夏の畑作の他に乳牛飼養戸数20戸、飼育頭数1,000頭、搾乳日糧8,000キロリットル、養鶏は13 戸、羽数100,000羽、育雛20%で、採卵は月量3,500キログラム、その他養蚕業4戸、集繭量年5,000キログラムを出荷できるまでになったそうです。その後、農地改革を経て、牛久市域には四つの農協が誕生します。牛久村農協、岡田村農協、岡田村女化農協、奥野村農協。昭和29年・30年の町村合併で牛久町になり、農協の名から「村」が取れました。昭和47年、岡田農協、岡田女化農協、奥野農協が合併し、牛久町中央農協に改組。昭和61年、牛久農協と牛久町中央農協が合併し、牛久市農業協働組合となりました。平成13年8月、龍ヶ崎市農業協働組合と併合し現在に至ります。

| 19:43 | 投稿者 : ushiku |
兵どもが夢の後・岡見城址

 

松尾芭蕉が奥の細道で平泉を訪れたとき、藤原三代の栄華を思いだし、呟いたとされる「夏草や兵どもが夢の跡」を思い出しました。

牛久岡見氏の最盛期の天正15年(1587年)〜18年(1590年)頃に岡見治広が後北条氏(小田原北条)に提出したとされる岡見氏本知行等覚書によると、牛久城が本城で、15の支城があり、岡見城はその中の一つでした。天正18年に後北条氏が秀吉の東国攻めで落城すると、牛久城の岡見氏は降伏し、牛久城以外の城は廃城となりました。そして、牛久城には太田金山城主の由良国繁が牛久城主として転封となりました。写真は鬱蒼とした茂みの中に、「常州岡見城城址」と「岡見家之霊菩提供養塔」という立派な石碑が人知れず建っていました。牛久周辺に城址はたくさんありますが、岡見氏をはっきり明示した石碑、供養塔はここだけです。牛久岡見氏とその一族、更には豊臣方との戦で無くなった兵士も含めての慰霊塔だと思います。もっと多くの方に見て頂きたいですね。

| 17:01 | 投稿者 : ushiku |
地元民によって管理されている古墳群

 

ここは牛久市猪子町の「道山古墳群」です。ここのクヌギ林は黄金色に輝いていました。この光景はクヌギ林でしか見られません。通常雑木林と言いますと、クヌギのほかコナラ等のブナ科の冷温帯植物とされています。ところが、ここはほとんどがクヌギの林でほぼ大半が落葉し、写真のような明るい林になっています。ところで、コナラはと言いますと、冬になってもすべては落葉しません。春になって、離層が活動を始めると落葉を始めます。コナラは落葉する前に葉柄の基部にできる特殊な細胞層を「離層」と言います。普通五〜七層の細胞層からなり、構成細胞の細胞膜がゼラチン状に膨潤し、細胞が互いに分離しますが、中央の層が粘液化して分離するかなどして落葉しやすくする現象です。コナラはこの離層の活動が動き出す頃、即ち春になってから落葉を始めますので、クヌギ林とは落葉の時期大きく異なります。写真の場所は標高22メートルの台地上にある、「道山古墳群」です。ここは、かつては50基ほどからなる古墳がありましたが、宅地化等で、数を減らし、現在では、9基が残されているのみです。現在「一厚西コミュニティ広場」となっているところに7基の円墳が残っています。

| 20:16 | 投稿者 : ushiku |
黄金に染まる観音寺

 

久野町の観音寺が黄金に輝いています。市民の木に指定された樹齢300年の銀杏の巨木の黄葉が終盤を迎えました。寺の境内は幾重にも降り積もったイチョウの葉でまさに黄金色です。天正14年(1586)1月、豊臣秀吉が時の天皇、正親町天皇に茶を献じるため京都御所の小御所に組み立て式の黄金に染まった茶室を運び込んだといわれる歴史がありますが、観音寺の黄金は人為的に作ったものではなく、自然の成せる業といえるでしょう。この美しい景観はそろそろ見納めになりそうです。イチョウの枝には僅かな葉が残るだけです。ご覧になる方、急いでください。

| 14:19 | 投稿者 : ushiku |
小さな小径の歴史・巡見道から臨幸道へ

 

細い山道のようなこの道は、市道9号線です。この道の正面は県道48号線の旧道です。車一台がやっと通れる細い道。町名は柏田町です。この道には古い歴史がありました。江戸時代には「巡見使」が使った「巡見道」として整備された道でした。巡見道とは、江戸時代に全国の幕府領や私領の支配の実情をみるために、幕府から派遣された視察官が全国を巡見した道でした。五代将軍徳川綱吉以降は将軍の代替りの際に派遣されることが多く、全国を幾つかのブロックに分け、各ブロック三名ずつの派遣が原則でした。八代将軍徳川吉宗の代替り発遣以後は幕府領・私領別々に編成され、幕府領は御料所国々巡見使、私領は諸国巡見使とよばれました。その巡見使が歩いた道でした。その後時代は変わり、明治に入り、巡見道としての役割は終えましたが、明治17年(1884)11月27日〜12月10日の間、女化が原において陸軍砲兵大隊の大砲射的訓練が行われました。この期間中の12月6日〜9日に明治天皇の天覧がありました。7日利根川を渡った明治天皇を人見寧茨城県令(知事)が奉迎し先導、午前11時55分牛久村到着。飯島左衛門宅を行在所としました。そして翌日8日、明治天皇の馬車は主に旧巡見道を馬車で女化に向かいました。水戸街道をお立ちになった天皇のご一行は、現金乃台カントリークラブの間を通り、この市道9号線に入り、現在の県道48号線を南下して女化神社に到着したそうです。明治天皇がお通りになった道を「臨幸道」と呼ばれました。

 

| 17:52 | 投稿者 : ushiku |
黄金に輝く古刹、観音寺

 

久野町の古刹、観音寺の黄葉が始まりました。威徳山福聚院観音寺は、「花曼荼羅のお寺」と言われ、本尊に十一面観音を祀る天台宗の古刹です。境内には、四季折々の花が咲き乱れ、6月の紫陽花、そして、秋には市民の木のイチョウ(No.16 樹齢300年)の黄葉が素晴らしく、イチョウの落ち葉を引き詰めたような境内は黄金色に輝き眩しいばかりです。遅れていたイロハカエデも紅葉が始まりました。

| 15:41 | 投稿者 : ushiku |
江戸時代から栄えた橋

 

小野川に架かる豊年橋から東の方向を撮影しました。写真左が小坂団地方向。右が上太田町です。方角的には左が北、右が南になります。小野川の橋は、県道48号線の架かる橋から東に順に、結束町に架かる小さな橋(名称不詳)で、人間一人しか渡れない小さな橋、次が写真の「豊年橋」です。江戸幕府の八代将軍吉宗の時代に江戸の燃料供給基地(御林)が牛久に設けられ、小野川水運が始まりました。この時代には、豊年橋は架けられていなかったと思いますが、この川の流域には「小野川通伝馬造茶船」という田舟を使った舟運の鑑札をもらった農家が河岸をつくり、年貢米、薪炭の江戸直納の舟運の基地として活気があったようです。そして、時代は経過して、明治の初期、農閑期に「お伊勢詣」の際、岡見や小坂の住民がこの橋を渡って、竜ヶ崎に入り、利根川を渡って千葉から東京に向かいました。すべて徒歩による長旅でしたが、途中宿泊しながら東京を目指し、新橋から横浜まで、開通したばかりの汽車に乗って、横浜から東海道の旅が始まりました。その日記が最近、岡見の旧家から見つかりました。詳細の日記で、全行程でかかった経費や宿泊地が詳細に記されています。そして、この橋は小野川左岸の村々の人たちが買い物(竜ヶ崎貝原塚方面)に、旅に足繁く使われた大事な橋でした。

 

| 20:12 | 投稿者 : ushiku |
道標から読み解く牛久の歴史

 

牛久を通過する、通称・鎌倉街道(市道7号線、昭和53年7月1日市道に認定)の小さな十字路の一角に御影石でできた道標を見つけました。歴史的な古さは感じませんでしたが、一部牛久の歴史を語るには貴重な遺跡と感じました。

道標には、(東)役場、井ノ岡、月出里。(西)岡見、柏田、牛久道。(南)泉、貝原塚、羽原(いずれも竜ヶ崎市)。(北)福田、小池、実穀(いずれも阿見町)とありました。ここで、東に書かれている「役場」とは、奥野村役場と思われます。奥野村は昭和30年2月10日、牛久町に編入合併し、新たな牛久町としてスタートしています。このことから考えますと、道標の建立時期は昭和30年以前のものと考えられます。

 

| 16:51 | 投稿者 : ushiku |
将軍足利義政の家臣、川司孝信が建立した神社

 

東洋大牛久高校の隣、鬱蒼とした杉木立の奥に「柏田神社」があります。正月や祭礼の時以外はほとんど訪れる人もいない静かな神社です。神社の創建は、807(大同2)年、鹿島神宮の分霊を勧請したとされます。祭神は武甕槌命、経津之命、天児屋根命。 御神体は、十一面観音、阿弥陀如来、薬師如来の銅仏三躯の懸仏(かけぼとけ:御正体ともいいます)といいます。周囲には豊かな森が残されています。 長禄年間(1457〜60年)、天候不順が続いたことから、将軍足利義政の家臣、川司孝信が1460(長禄4)年、祠を建てて懸仏を祀り、天候回復を祈願したとされます。 社殿は1987(昭和62)年5月4日の不審火で焼失。1989(平成元)年4月5日再建されました。市内には歴史的な神社仏閣が埋もれています。

 

| 17:22 | 投稿者 : ushiku |