207年前から生き続ける交通の要衝

 

ここは中根小学校下の農道から、南西側国道468号線を遠望しています。468号線と言いますと聞きなれない名前かと思われますが、この道路は「高規格自動車専用道路」といい、通称「首都圏中央自動車連絡道」、すなわち「圏央道」です。牛久市内には3本の国道が走っています。6号、408号、そして468号です。現在では重要な幹線道路になっていますが、その圏央道の下に一級河川小野川が流れています。小野川とはつくば市の小野崎と洞峰沼が水源となり、牛久市域を縦断し稲敷市の古渡まで36.45kmの一級河川です。この川は蛇行が激しく水深も浅かったため、大雨が降れば度々氾濫したそうです。現在は河川の改修がされているため、氾濫は無くなりました。この小野川には大きな歴史がありました。今を去ること207年前、文化10年(1813)に小野川水運という江戸までの水運による輸送手段がスタートしました。この年に小野川流域の農家28戸が、幕府郡役所に小野川通伝馬造茶船(でんまつくりちゃぶね)の鑑札を申請し受理されました。この時代は江戸の人口は増え続け、エネルギーの枯渇が大きな問題となっていました。そこで、江戸を取り巻く周辺の村々に幕府は官有林にアカマツを植栽し、薪と炭にして江戸直納を義務づけました。その輸送経路となったのが小野川でした。このルートを「小野川水運」と呼ばれています。この場所は今も昔も交通の要衝として生き続けています。

| 18:51 | 投稿者 : ushiku |
柏田川と小野川の合流点

 

ここは柏田川(準用河川)の最下流域、小野川との合流点です。柏田川の源流は確実園園芸場付近で、現在では埋め立てられて川の姿は見られませんが、コルサム牛久(マンション)前のJR常磐線脇に調整池がありますが、この池が柏田川の源流付近の名残になります。その水は暗渠となってJRの下を潜り、田宮・中柏田線とハナミズキ通りの交差点の眼鏡市場と洋服の青山の信号を地下で斜めに横切ります。そして、牛久シャトーの裏に出て、市役所脇の近隣公園に。ここで、川は一旦顔を出し、近隣公園の池に流れ込みます。柏田川は再び暗渠となって、ふれあい通りの下を潜り、中央図書館の南側でやっと地上に顔を出します。ここから、三面コンクリートの川となって小野川に注いでいます。全長2.5kmの小さな川でした。写真上部右の森は東洋大牛久高校です。

 

 

| 19:04 | 投稿者 : ushiku |
奥野開拓地の今

 

現在の奥野地区には牧場がたくさんあります。ここは戦後の開拓で知られていますが、昭和23年、敗戦によって満州に移民した人たちは続々と帰国しました。奥野開拓は、昭和24年、リーダーの「平沢千秋氏」によって奥野開拓が始まります。終戦で治安の悪化した満州から命からがら帰国した方々は、生活基盤もなく、極貧の生活の中から、平沢氏の元、苦しい開拓が始まりました。バラックの小屋に身を寄せ合い、苦労の末開拓は進みました。奥野地区は広大な土地を利用し、牧場経営に舵を切りました。そして苦労の末、牧畜に日の目を見ることになります。牛久には三大開拓と呼ばれる、明治の「女化開拓」(失敗)、戦後の「奥野開拓」(牧畜)「成美開拓」(養鶏)がありますが、牧畜で成功したのは奥野開拓でした。そして、時代は遡り、中央競馬会の美浦にトレーニングセンターが設立されると、奥野地区も忙しくなります。競走馬のトレーニング牧場が増え、各所で、サラブレッドの名馬を見るようになりました。写真は名前はわかりませんが、明らかにサラブレッドという雰囲気があります。

| 20:01 | 投稿者 : ushiku |
黄金色の観音寺いつかもう一度

 

久野町の観音寺のイチョウとカエデが色づいてきました。イチョウはそろそろ終わり。イロハカエデの見ごろは後二週間ほどでしょうか。市民の木のイチョウの巨木(樹齢300年)は、ここ数年元気がありません。数年前に大きく剪定が行われましたが、その影響かどうか、写真のように枯葉が敷き詰められていますが、以前は地面が見えないほどでした。山門の内側の境内もまばらです。イチョウを見上げてみると、葉は少なくなっています。異常気象なのか、台風15号の塩害のせいなのか、剪定のためなのか、錦秋という華やかな情景が見られません。

| 17:32 | 投稿者 : ushiku |
ひたち野牛久の八兵衛さん

 

久しぶりに「八兵衛さん」に会ってきました。八兵衛さんとは知らずにその前を通り過ぎている方も多いかと思います。JRひたち野牛久駅東口の階段下に何時も立っています。八兵衛の来歴は右下の小さな石に書かれています。酒島村の名前は鎌倉時代に同地を河内郡酒島郷といったのが由来とされ、その昔、暴れ川として恐れられていた付近の小野川から流れてきたみこしを村一番の働き者の八兵衛が見つけ、神社の境内に運び込みほこらを造って祀ったのでした。朝晩欠かさずお参りし泉の水を病気がちだった祖父に飲ませたところ病気が一気に回復。霊験ある神社の泉としてうわさが村中に広まり、村人が神社に集まってみると泉の水は酒に変わっていました。大喜びした村人たちはいつしか泉のことを「酒島の霊泉」と呼び、参拝者や酒を目当てに来る人が増え一段と村は活気づいたといわれています。この場所は、下根中の下に小野川が流れていますが、川のすぐ手前に田んぼの中にある小さな神社「五十瀬神社」と言いまして、その神社に伝わる「酒島の霊泉」という昔話の主人公でした。

 

 

| 16:14 | 投稿者 : ushiku |
準用河川・柏田川

 

ここは柏田川(準用河川)の下流域になります。ぶどう園通りを東に進み、ふれあい通りの栄町5丁目交差点を直進し道は緩い下り坂になります。その坂を下った一番下が柏田川の橋になります。ほとんどの方は知らずに橋を渡っています。そして道は緩い上り坂になり、登りきったところが東洋大牛久高校入り口になります。柏田川の源流は確実園園芸場付近で、現在では埋め立てられて川の姿は見られませんが、コルサム牛久(マンション)前のJR常磐線脇に調整池がありますが、この池が柏田川の源流付近の名残です。その水は上記写真の付近まで暗渠となってJRを潜り、田宮・中柏田線の眼鏡市場と洋服の青山の信号を斜めに横切り、牛久シャトーの裏に出て、市役所脇の近隣公園に。ここで、川は一旦顔を出し、再び暗渠となって、ふれあい通りの下を潜り、中央図書館の南側で地上に顔を出します。ここから、上記写真の三面コンクリートの川となって小野川に注いでいます。全長2.5kmの小さな川でした。

| 17:08 | 投稿者 : ushiku |
有料道路であって高速道路ではない圏央道

 

稲刈りの時期に相次ぐ台風で刈り取りが大きく遅れるのではと思っていましたが、晴れればあっという間に刈り取り作業は終わります。ここは中根地区の水田です。後方に見えるのは国道468号線です。国道468号線とは馴染まない数字ですが、通称「圏央道」です。どう言うわけか高速道路ではないのです。国交省によれば、圏央道は「高規格自動車専用道路」だそうです。要するに有料道路であって、高速道路ではないと言うことになります。

| 18:14 | 投稿者 : ushiku |
指定解除になった市民の木

 

まるでジャングルのようなこの場所は、久野町の鹿島神社飛び地にある、牛久の市民の木(No.15)「スダジイ」です。中央の赤茶けた部分がスダジイの朽ち果てた姿です。この度、大変残念なことですが、市民の木から指定が外されました。完全に枯れてしまってはどうにも仕方がありません。このスダジイのデータは、幹周:4.73m、樹高:18.3m、最大樹冠幅6.7m(NPO法人うしく里山の会測定)という堂々たる巨木でした。この木は、老木のため成長が止まり、樹冠競争に負けて、光も採れず枯死したのかもしれません。

| 16:37 | 投稿者 : ushiku |
仲秋にもの悲しく「蜩」の声

 

処暑が過ぎて、厳しかった夏もそろそろ終わりでしょうか。秋霖前線は南に遠ざかり、今日のお天気は何とか安定しました。このところ秋の深まりを強く感じるのは、ヒグラシの鳴き声です。蝉の中でも最も美しいとされる「蜩」の「カナカナ」と、もの悲しく鳴く声に思わず聞き入ってしまいます。まだ明けやらぬ早朝や曇りの日にも聞こえますが、日の傾いた頃に多く鳴くのでこの名があり、「かなかな」とも呼ばれます。蜩は、透明の羽を含めて4〜5cmほど、体は赤褐色、雑木林や杉林に生息します。日差しの弱くなってきた、仲秋にもの悲しく鳴くので秋の季語になっています。(道山古墳群にて)

| 15:06 | 投稿者 : ushiku |
今や肥沃の大地に変貌した岡見が原開拓地

 

ここは牛久市福田町です。鎌倉街道の北側にあたり、牛久大仏も見えます。今でこそ広大な北の大地のような景観を見せていますが、牛久には三大開拓として、明治期の女化開拓、そして戦後の、奥野開拓、成美開拓が牛久の黎明期の大きな開拓が三カ所ありました。しかし、ここに忘れられていた明治期の開拓がありました。その名は「岡見が原開拓」です。この時期は明治11年内務卿大久保利通の命を受けて、牛久の大地に乗り込んできた「津田出」(元紀州藩士)による女化が原の開拓が始まっていました。その官有地の開拓地から外れた、岡見が原に目を向けたのが、旧牛久藩士「愛知直簡」など3名でした。これらは、牛久県知事人見寧宛に「荒蕪地開墾の儀願」を提出したことからはじまります。その願書によれば、この広大な原野は「天賜ノ妖地」であるが、これ「空しく放棄セシムルノ形況」は、穀物の価格がきあめて安く「殖産培養ノ動費ヲ償フコトアタワザル」によるものとして、これを開墾「牧畜ノ事業ヲナシ」たいというものでした。願書提出の二年後、明治15年11月、その時点での貸付原野はすべて官有地。面積は、岡見・小坂・福田の原野82町歩5反余りでした。女化開拓ほどではありませんが、この広大な土地は前述の牛久藩士によって、開拓が始まろうとしていましたが、他の牛久藩士の同意を得られず、以後挫折の道をたどります。

| 19:58 | 投稿者 : ushiku |