鎌倉街道の牛久起点

 

幻の古道といわれる鎌倉街道の調査を行いました。鎌倉街道は幕府の置かれた鎌倉から常陸の国に通じる「下の道」といわれるルートで、利根川を渡って利根町、竜ヶ崎と進みますが、小野川を渡るあたりから街道が途切れていて、詳細がわかりません。そこで、明治14年陸軍省測地部の作成した「迅速即図」の牛久村を使って、牛久に入ってからどのようなコースを辿ったのかを現地踏査しました。国道408号の島田町(信号)付近が竜ヶ崎との接続点ですが、408号から小野川までの道がありません。迅速即図によれば、現在の島田町信号から西に400mのところの(GS)から北西に伸びる山道を見つけました。尚、このGSから南に竜ヶ崎に通じる道があります。408からこの道に入り北西に進むと、長沼りんご園を左に見て、そのまま進むと、奥野生涯学習センターに出ます。そのまま進むと山一味噌(牛久二中入口信号)に出ます。ここから小坂団地北側を通り、県道48号線につながる市道が現在の鎌倉街道といわれています。この結果からしますと、牛久二中入口信号から東のカントリーラインまでは鎌倉街道ではないと結論づけました。

 

| 16:56 | 投稿者 : ushiku |
鎌倉時代の幻の古道

 

牛久の幻の古道「鎌倉街道」の奥野地区です。鎌倉街道とは、1192年、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、支配力強化のために鎌倉と東国の各地域を結ぶ道路整備に力を注ぎ、次々と道路網が建設されました。そして陸奥などの地方を結ぶ交通路で、いわゆる鎌倉幕府の御家人が「いざ、鎌倉」と馳せ参じた道であり、鎌倉時代から戦国時代までの関東武士の栄枯衰退の歴史を物語る道です。しかし実態としては詳細な道筋や姿はあきらかでなく「幻の道」と呼ばれています。牛久を通る鎌倉街道は、国道408号島田町付近から現在の鎌倉街道を西に進み、県道48号線から阿見町に至るコースです。富岡八幡宮(鎌倉幕府)から北に延びる街道が制定されました。

上道(かみつみち):鎌倉から化粧坂を越え、武蔵西部を経て高崎、信濃、越後へ抜ける。

中道(なかつみち):鎌倉から巨福呂坂を通り、武蔵国東部を経て下野国から奥州へ至る。

下道(しもつみち):鎌倉から朝夷奈切通を越え、武蔵国東側の東京湾沿いを北上して常陸へ。

牛久の鎌倉街道は、「下道」(しもつみち)です。この街道の歴史を知らずに利用している方が大半でしょうか。

 

| 18:04 | 投稿者 : ushiku |
秋分の使者・曼珠沙華

 

間もなく秋分です。牛久市域の稲刈りもほぼ終わり、田んぼの畦にヒガンバナ(曼珠沙華)が本格的な秋の到来を告げています。秋の田んぼとヒガンバナは日本の原風景でした。昔の人は、ヒガンバナを毒草であるが故に、縁起の悪い名前を敢えて付けたようで、 死人花、地獄花、葬式花等々、本当に縁起の悪い名前を付けて、植える場所も墓地などが多かったようです。しかし、飢饉などで食料が不足したときにヒガンバナの球根を掘り起こし、摺りおろして、毒性分を水で晒し最後に残ったデンプンを食べたと言われています。このため、「救荒植物」として、別の意味で大切にされてきた珍しい植物です。(中根小学校付近)

| 16:03 | 投稿者 : ushiku |
国際線の旅客機を見守っている牛久大仏

 

牛久大仏の背後から、成田空港に着陸態勢に入る国際線旅客機です。大仏の手から飛び出したような光景を捉えました。牛久は国際線の航路となっており、大仏の背後から通り過ぎて行く旅客機が後を絶ちません。旅客機はこの後にも続々と続いていました。

| 19:45 | 投稿者 : ushiku |
七十二候・鶺鴒鳴

 

この所、気温は急降下、今朝5時の気温は18度、肌寒く感じました。晴天をもたらした移動性高気圧が東に遠ざかりますので、お天気は下り坂ですが、中々雨が降りません。でも、気持ちの良い秋晴れが続きます。今日は二十四節気「白露」の七十二候(次候)「鶺鴒鳴」(せきれいなく)。鶺鴒が鳴きはじめる頃。鶺鴒は水辺を好む鳥のため、川の上流域に行くほど多く見られます。セキレイは日本書紀にも登場し、季節の変わり目を人々に教えて来ました。セキレイは昔は冬鳥でしたが、現在は国内で一年中見られます。昔はこの時期に北から渡って来たセキレイが鳴き出す時期を捉え、七十二候や俳句の秋の季語にもなったのでしょう。(写真はセグロセキレイ)

| 17:05 | 投稿者 : ushiku |
台風の前に稲刈りは正解

 

今日は、二十四節気(処暑)の七十二候(末候)「禾乃登(こくものすなわちみのる)」です。日に日に稲穂の先が重くなってくる頃。稲穂はこぼれるように実り、色づき始めます。しかし、この時期は台風が襲来してくる時期であり、各地で農作を祈るお祭りが開催されます。こちらでも稲刈りが始まりました。昔と違って、コンバインであっという間に刈り取ってしまいますので、昔のように腰の後ろに稲わらの束をつけ、鎌で刈り取ると言う日本の原風景といった情景は見られなくなりました。文明の利器は風物詩まで、消し去ろうとしているようです。大型台風21号が近づいてきました。進路には十分ご注意ください。(小野川流域の水田)

| 19:16 | 投稿者 : ushiku |
江戸の町を守った小野川水運

 

今も静かに流れる一級河川「小野川」。源流はつくば市小野崎、南北朝時代の新井氏の居城・御城址(みじょう)の内堀と洞峰沼(現在の洞峰公園)を水源として稲敷市の古渡から霞ヶ浦に注いでいます。小野川の諸元は、一級水系・一級河川・延長:36.45m・流域面積175.7㎢です。小野川が注目されたのは、江戸時代(1720年代)、8代将軍吉宗の人口調査で日本の人口は3000万人、江戸の人口は100万人と世界最大級の都市に成長していました。そこで、幕府が困ったのはエネルギー問題でした。現在のように電気、ガスもなく、薪炭の増産を江戸周辺の各藩に指示しました。そこで生まれたのが「御林」(おはやし)でした。御林とは今で言う国有林で、特にアカマツを植林し、それを薪炭として生産し、「江戸に直納せよ」、と言うものでした。しかし、江戸直納の輸送手段がありません。そこで生まれたのが「小野川水運」でした。小野川流域村々の28戸は、文化10年(1814)に幕府役所に「小野川通伝間造茶船鑑札請書」を申請し許可がおりました。28艘の伝間造茶船(でんまつくりちゃぶね)は10mほどの小舟で、牛久周辺の村々から年貢米や薪炭などを集め、伊佐津河岸(現稲敷市)まで運んでいました。小野川で用いられた伝間造茶船は、浅瀬で安定した航行ができるよう、他の地域とは異なった改良が加えられていたようです。小野川水運はこうして隆盛を極め、明治時代まで続いたそうです。江戸までの水運:牛久→(小野川)→伊佐津(積み替え)→古渡(霞ヶ浦)→横利根→(利根川)→関宿→(江戸川)→行徳→(新川)→中川船番所→(小名木川)→(隅田川)→蔵前(米)・御竹蔵(薪炭・木材)(行程200km)

| 19:30 | 投稿者 : ushiku |
夏と秋の季節のせめぎ合い

        ↑筑波山

猛暑が続いていますね。牛久は今日も38度まで上がりました。どんなに暑くても、季節は本格的な秋に向かっています。写真は午後4時の空です。実に綺麗な空で思わずシャッターを切りました。左下に小さな筑波山が見えるかと思いますが、牛久市猪子町の小野川から北西の空です。このような空を「秋色の色」と言います。

「はつあきやまだ顕れぬ庭の色」(加賀千代女) 残暑が厳しいとはいえ、立秋から二週間強。目を凝らしてみれば、秋の気配はそこここに現れ始めています。上空の箒で掃いたようなすじ雲は「巻雲」(けんうん)と呼び、高層雲で、「天高く上層に流れる空の女王」と呼ばれている秋雲です。そして、下の方に固まってみられるのは「積乱雲」(入道雲)で、「雄大雲」が発達したものです。この積乱雲の上部が割れてくると「かなとこ雲」と言い、雷雲となります。この雲はまさに夏雲の象徴とされています。この季節に異なる雲の共演はまさに夏と秋の季節のせめぎ合いと言うことになります。

| 19:21 | 投稿者 : ushiku |
風台風で稲が守られた

 

台風20号が通り過ぎました。牛久は日本海を北上中の暴風圏の縁がかすめたため、風も雨も少なかったのが幸いでした。この時期に台風が来るのが一番やきもきするのが刈り取り寸前の稲です。昨夜から今日にかけて比較的雨が少なかったのが幸いしました。これまで、台風の風雨で稲穂の茎が折れて、水田にべったりと引き詰められたような光景が見られますが、今回は市内の田んぼではこの光景は殆ど見られませんでした。完熟した重い稲穂は強い南風にも耐えていました。でも急がないと再び台風の脅威が。

| 17:28 | 投稿者 : ushiku |
乏水の台地から絞り出された小さな小川

 

出穂の終わった谷津田。ここは上太田町町の一角です。上太田と言いますと案外知られていないようですので、詳しく解説します。上太田町は牛久自然観察の森の東側、小野川にかかる豊年橋付近の集落です。写真は太田川の谷津で、写真右側は牛久市総合福祉センターがあります。そして、写真右の小川が太田川です。太田川の上流は、女化町で、水源は複数ありましたが、現在は湧水も出ていないかもしれません。太田川は牛久市の準用河川で、一級河川小野川の支流となっています。昔は乏水地帯と言われた女化台地(稲敷台地)から僅かな地下水が絞り出され、小さな川を形成していました。

| 19:28 | 投稿者 : ushiku |