黄葉が待ち遠しい観音寺

 

久野町の威徳山福聚院観音寺は、本尊に十一面観音を祀る天台宗の古刹です。正面の仁王門は宝永4年(1707)に本堂の改修時に同時に建立されたと推定され本堂に使われていた古材が随所に再利用されています。仁王門は三間一戸の八脚単層門で寄棟、元茅葺、両側に慶安3年(1650)に制作された仁王像が安置、江戸時代中期の寺院山門建築の遺構として貴重な事から平成3年(1991)に茨城県指定重要文化財に指定されています。そして、仁王門右手前に大きな木、イチョウは牛久市民の木No.17に指定されている巨木です。11月の黄葉の時期になると、黄葉したイチョウの葉で境内は黄金色一色になります。この時期はヒガンバナが見頃を迎えています。

| 16:50 | 投稿者 : ushiku |
稲敷台地を滔々と流れる

 

この川は一級河川「乙戸川」です。土浦市の乙戸沼公園を水源にして、牛久市井ノ岡町で桂川が接続、島田町から国道408号を横切り、小野川に流入しています。小さな川ですが一級河川で、土浦市荒川沖、阿見町、牛久市と流れ、流域の水田の農業用水に利用されています。この乙戸川の支流の桂川には「鎌倉権五郎」の伝説が残されています。

| 20:14 | 投稿者 : ushiku |
17日ぶり・秋霖の中休み

 

今年の夏は猛暑の後、長雨という不安定な天気が続いています。早朝は小雨がパラツキ、長雨は17日連続となりました。この記録は40年ぶりとか。しかし、午後からお天気は急速に回復し、17日ぶりの青空となりました。この青空も僅か二時間ほど。4時過ぎから再び雲優勢の空に変わりました。天気図では秋霖(秋雨)前線が見え隠れしていますので、明日から再び秋の長雨になりそうです。連日の雨で汚れた空気は一掃されたのでしょう、紺碧の空の元、牛久大仏は威容を誇っていました。(15:13撮影)

| 17:01 | 投稿者 : ushiku |
200年前と変わらぬ交通の要衝

 

ここはJR常磐線と上を走る首都圏中央自動車連絡道(圏央道)、そしてその下を流れる川は一級河川小野川です。この三つに何故注目するかと言いますと、この場所は、江戸時代から交通の要衝でした。現在の常磐線の西側を走る一般国道6号線。そして、圏央道の下を流れる「小野川」は、今を遡ること203年前、江戸の人口急増に対応するための幕府のエネルギー政策として江戸を取り巻く村々に今で言う国有林(御林)が設けられました。ここで生産された薪炭の輸送と、年貢米の江戸直納のため、文化10年(1814)に小野川を利用した水運が発達しました。幕府郡役所は小野川流域の農家から出された申請を受理し、「小野川通り伝馬造茶船鑑札」を発行しました。これにより、牛久から江戸までの諸物資は小野川→霞ヶ浦→横利根→利根川→関宿→行徳→新川→小名木川→大川(江戸)までの片道200kmの水運が始まりました。それから82年後の明治29年、日本鉄道海岸線の土浦−田端簡が開通しました。常磐炭田の石炭を京浜地区に輸送するため、いち早く開通した路線です。それから121年後、平成29年(2017)首都圏中央自動車連絡道(圏央道)が開通しました。いつの世も交通の要衝は変わらないのですね。

| 20:13 | 投稿者 : ushiku |
一級河川小野川の歴史

 

市街地を一寸外れると、こんな長閑な風景が広がります。ここは岡見町から望む小野川です。小野川とはつくば市の小野崎と洞峰沼が水源となり、牛久市域を縦断し稲敷市の古渡まで36.45km牛の一級河川です。この川は蛇行が激しく水深も浅かったため、大雨が降れば度々氾濫したそうです。現在は河川の改修がされているため、氾濫は無くなりました。

この小野川には大きな歴史がありました。今を去ること203年前、文化10年(1814)小野川水運という江戸までの輸送手段がスタートしました。この年に小野川流域の農家28戸が、幕府郡役所に小野川通伝馬造茶船(でんまつくりちゃぶね)の鑑札を申請し受理されました。この時代は江戸の人口は増え続け、エネルギーの枯渇が大きな問題となっていました。そこで、江戸を取り巻く周辺の村々に幕府は官有林にアカマツを植栽し、薪と炭にして江戸直納を義務づけました。その輸送経路となったのが小野川でした。このルートを「小野川水運」と呼ばれています。(写真の下部、左右の白い線の間が小野川)

| 20:54 | 投稿者 : ushiku |
酒島の霊泉の舞台となった五十瀬神社

 

牛久の民話「酒島の霊泉」の舞台となった五十瀬神社、中央の木立の下にあります。境内には「酒島村霊泉之碑」があり、酒がわき出たという言い伝えがあります。酒島村の名前は鎌倉時代に同地を河内郡酒島郷といったのが由来とされ、その昔、暴れ川として恐れられていた付近の小野川から流れてきたみこしを村一番の働き者の八兵衛が見つけ、神社の境内に運び込み祠を造って祭った。朝晩欠かさずお参りし泉の水を病気がちだった祖父に飲ませたところ病気が回復。霊験ある神社の泉としてうわさが村中に広まり、村人が神社に集まってみると泉の水は酒に変わっていた。大喜びした村人たちはいつしか泉のことを「酒島の霊泉」と呼び、参拝者や酒を目当てに来る人が増え一段と村は活気づいたといわれています。泉は現在は枯れてしまって居ますが、井戸は神社の裏に残されています。

| 15:55 | 投稿者 : ushiku |
間もなく梅雨入り、紫陽花寺は

 

間もなく梅雨入りですね。関東は木曜日頃と言われています。この季節は湿度が高く鬱陶しい季節ですが、この時期に映えるハナショウブやアジサイは乾燥していては映えません。梅雨の季節の花と言っても良いでしょう。

ここは久野町の古刹観音寺です。このお寺は紫陽花とイチョウの黄葉で有名ですが、紫陽花の見頃の時期はまだ先のようです。ここは青の紫陽花が多いようです。紫陽花は酸性土壌・アルカリ性土壌で花の色が変わると言われていますが、日本の土壌は弱酸性のため、青が多く、ヨーロッパはアルカリ性でピンクの紫陽花が多いと言われています。紫陽花は花のリトマス試験紙と言われていますが、実際の試験紙とは色が逆です。

| 17:14 | 投稿者 : ushiku |
昔話の主人公が居るひたち野牛久駅

 

牛久の民話「酒島の霊泉」の主人公・八兵衛さんの像です。ここはひたち野牛久駅東口にあります。

物語は、牛久市立下根中学校と圏央道の間に広がる田んぼの中にある五十瀬(いそせ)神社。境内には「酒島村霊泉之碑」があり、酒がわき出たという言い伝えがあります。酒島村の名前は鎌倉時代に同地を河内郡酒島郷といったのが由来とされ、その昔、暴れ川として恐れられていた付近の小野川から流れてきたみこしを村一番の働き者の八兵衛が見つけ、神社の境内に運び込み祠を造って祭った。

朝晩欠かさずお参りし泉の水を病気がちだった祖父に飲ませたところ病気が回復。霊験ある神社の泉としてうわさが村中に広まり、村人が神社に集まってみると泉の水は酒に変わっていた。大喜びした村人たちはいつしか泉のことを「酒島の霊泉」と呼び、参拝者や酒を目当てに来る人が増え一段と村は活気づいたといわれています。泉は現在は枯れてしまって居ますが、井戸は神社の裏に残されています。

| 16:55 | 投稿者 : ushiku |
谷津田が一番映える季節 その2

 

昨日に続き、谷津田です。日本の原風景と言われる美しい景観を残す谷津・谷津田は茨城の県南では牛久が最も注目されるところです。昨日も申し上げましたが。牛久は稲敷台地の南端にあり、台地の中に深く入り込む谷(谷津)は絞り水を集め谷津が形成され、小さな川となって牛久沼や霞ヶ浦に注いでいます。この場所は上太田町ですから、谷津の湧水は太田川となって、小野川に注ぎ、霞ヶ浦に注いでいます。小野川の流域は水が豊富であることで、現在でも市内有数の稲作地帯となっています。この付近の稲作は300年前の江戸享保の時代に遡ります。七代将軍吉宗の時代、江戸の人口が100万人を超えました。幕府が一番困窮したことは、水と燃料(エネルギー)と食料(米)でした。そこで、吉宗は江戸を取り巻く周辺の村々に、薪炭として利用できる赤松林の御林(おはやし)を早急に植林するよう命じました。当然この地区も御林となり、雑木が伐採されて赤松に代わっていきました。成長した赤松は伐採され、薪炭とされ、米と一緒に、江戸に直納されたのです。その運搬経路が、小野川水運(舟運)でした。この付近(結束町。上太田町)には農家の河岸が幾つも設置され、伝馬造茶船(でんまつくりちゃぶね)という国内でも唯一の得異な形をした田舟で、伊佐津河岸(現稲敷市)まで運び、そこから高瀬舟で江戸まで送り出されていました。片道200kmの水運でした。

| 19:37 | 投稿者 : ushiku |
小野川、300年後の姿

 

五月も後半に差し掛かりました。田植えもすっかり終わった水田の早苗はしっかりと活着し、そよ風になびいていました。ここは圏央道中根小学校付近です。圏央道全通以来、通行量は格段と増えたようです。この圏央道の下は一級河川小野川がつくば市から稲敷市の霞ヶ浦の古渡まで流れています。この小野川は江戸時代中期から水運の要衝として栄えました。その名は「小野川水運」と呼ばれ、江戸迄200kmの水運を利用して、燃料としての薪炭を送り込んでいました。交通の要衝は水運から高速道路に姿を変えて繁栄を続ける事でしょう。

| 18:13 | 投稿者 : ushiku |