兵どもが夢の跡・牛久陣屋跡

 

そろそろ新緑が眩しくなってくる季節になりました。ここは旧牛久城址内の牛久陣屋跡です。現在は更地になっていますが、幕末まで牛久陣屋が置かれていた場所です。孟宗竹の手前に陣屋門があったはずです。一時廃城になっていた牛久城には徳川家康の命により山口重政が15000石で牛久に封じられ、以後12代、幕末まで続きました。牛久陣屋は寛文9年(1669)2代目山口弘隆によって牛久城西端に築かれ幕末まで続きました。その間、文久3年(1863)に改築されたものとされています。その陣屋門が当HPの3月7日(小野川)に掲載しました陣屋門です。現存する陣屋門が改築された際の門とすれば、156年の時を経ています。陣屋門は廃藩置県で速やかに壊されましたが、市内某所の旧家が拝領したものとされ現在に至っています。

| 17:29 | 投稿者 : ushiku |
国道6号牛久土浦バイパスの通過地点現況

 

国道6号線牛久土浦バイパスの難工事が終わりました。バイパスは6号から左に外れて、根古屋川を渡るため、軟弱地盤が難工事になった筈です。連日地盤固化工事で明け暮れて居ました。固化工事が終わり橋脚も完成し、工事は次の段階に入るようです。橋桁と橋桁の上に「プレートガーター橋」(桁橋)とも言いますが、鉄鋼製の橋を橋桁の上に載せ、順次つなぎ合わせて延ばしていきます。

牛久で一番の清流根古屋川と周辺里山のバランスのとれた景観もそろそろ見納めかもしれません。

| 16:48 | 投稿者 : ushiku |
国道6号牛久土浦バイパスの通過地点現況

 

国道6号牛久土浦バイパスが三日月橋付近の長閑な自然景観まで変えようとしています。現6号から伸びてくるバイパス根古屋工区は橋脚がほぼ完成し、市道城中田宮線付近で接続されると、その先は、牛久三中と三日月橋生涯学習センターの間を抜け、写真の二つの白い建物の間を抜けて稲荷川を渡ります。バイパスは稲荷川の右岸(写真左側)の新地町の水田地帯をを北上し、茎崎中学付近で稲荷川を左岸に渡ります。そして再び北上し、高崎自然の森と筑波双愛病院付近を通過して国道408号に接続されます。408号接続点の手前側の土地収用が始まったようです。

| 16:56 | 投稿者 : ushiku |
牛久市観光アヤメ園が忙しくなってきた

 

牛久市観光アヤメ園の管理作業が佳境に入りました。まもなく春分、春は本番になりました。アヤメ園の圃場の雑草は成長が一気に進み、これまで茶色だった圃場は緑一色に変わりました。花菖蒲は芽出しが始まり、6月の開花期に向けて、更に忙しくなりそうです。

今年も、5月の「アヤメ」、6月の「へメロかリス」(ニッコウキスゲ似の花)、「ハナショウブ」。そして、新顔が加わります。6月に「カキツバタ」、妖艶な紫の花が加わります。

| 19:05 | 投稿者 : ushiku |
牛久沼かっぱの小径

 

牛久沼かっぱの小径の木道の改修が終わり綺麗な木道になりました。かっぱの小径は四季を通じて心を癒やしてくれる自然散策路になっています。写真の木道の両側にある高木は「マルバヤナギ」です。ゴールデンウイークの後半に「柳絮」(りゅうじょ)という一大ページェントが見られます。柳絮とは柳の花は咲いた後にすぐ結実し、綿毛になって浮遊します。この光景が自然界のページェントなのです。まるで牡丹雪がふわふわと浮遊するように空中から足下まで真っ白になります。木道も真綿を敷き詰めたようになり、早苗がなびく田んぼは真っ白。国内で柳絮が見られる場所は上高地の「化粧柳」が有名です。

 

| 17:11 | 投稿者 : ushiku |
国道6号牛久土浦バイパスの通過地点現況

 

国道6号線牛久土浦バイパスのその後です。手前の台地(切り株のところ)は昨年秋に山王前遺跡(縄文時代)として埋蔵文化財の発掘が行われた場所です。この埋蔵文化財は国道バイパスのルートにぶつかっているため、発掘後報告書にまとめられて、遺跡は潰されてしまいました。そして直前に迫った橋脚の足場が取り払われていました。橋脚は幾つもありますが、足場は徐々に取り払われて、工事は次の段階に入っていました。

| 17:54 | 投稿者 : ushiku |
長閑な休日の牛久沼

 

今日は穏やかな日和になりました。スギ花粉も昨日のようには酷くは無く、「春の海 終日(ひめもす)のたりのたりかな」といった長閑な一日でした。今日は休日。牛久沼には多くの釣り客が訪れ賑わっていました。この写真を撮影した場所は、東林寺城の一の郭(江戸以降は本丸と呼称)から牛久沼を遠望しています。東林寺城跡は現在も空堀が4本残っており、敵の侵入を防ぐ要害な城であったことが考えられます。東林寺城は牛久岡見氏の支城で小田原北条方でした。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの数年前には、秀吉方の水戸佐竹氏の配下であった下妻の多賀谷氏によって落城しています。

| 18:29 | 投稿者 : ushiku |
アヤメ園の管理作業が進む

 

アヤメ園の管理作業は春の陽射しを浴びて順調に進んでいます。冬季は圃場が凍結のため、休止していましたが2月からスタート。除草作業の傍ら、寒肥の施肥を行っているところです。アヤメ園はこれから3月〜4月にかけて芽だしがあり、再び施肥を行います。その頃になると気温も上がり雑草の生育もスピードが上がり、除草との競争になります。そして、5月には花茎が伸びだし、6月中旬から花菖蒲の開花期になります。中旬から下旬までお客様のため「花がら摘み」が連日行われます。花が終わり、気温も急上昇する7月から、「株分け」がスタートします。3年に一度の株分けになります。大きく成長した株を掘り起こし、固くなった根を切り離し、小さな苗にしていきます。これを6本づつ植え直し、9月末で株分けが終了します。その後は除草の連続。12月の圃場が凍結し始める頃まで作業は続きます。

| 17:17 | 投稿者 : ushiku |
日の光が慎ましやかにそっと影を落とす頃

 

二十四節気の「雨水」がすぎて、季節は本格的な春に突入しました。春は本当に心を暖かくしてくれます。この柔らかな陽射しを「薄ら日」と表現し、日の光が慎ましやかにそっと影を落とします。立春の前は畳の一目づつと言われたほど遅々たるものでしたが、心なしか日の長さを感じるようになりました。それを実感するのは昼ではなく、夕暮れ時の空の色です。昼は「薄ら日」の淡い基調でしたが、夕空は紺色を深く染めていきます。暮れそうで暮れない夕空に一日が長く感じられるようになります。もうすぐ春一番も吹くでしょう。花粉、砂塵、各種ウィルスと油断大敵です。

| 18:49 | 投稿者 : ushiku |
戦国時代最強の女傑・妙印尼輝子

 

城中町の得月院です。ここは小川芋銭の墓所として知られていますが、それ以上に深い歴史がありました。天正18年(1590)、今から429年前、豊臣秀吉は天下統一すべく、小田原北条氏を攻略しました。その時、由良国繁・太田金山城主(現群馬県)でしたが、小田原北条氏が常陸国の佐竹氏を攻撃するため、金山城と館林城の借用を申し出ました。ここで、兄弟(弟の長尾 顕長(あきなが))はこれを承知しましたが、これに反発した家臣は国繁らの母・妙印尼を擁立して籠城したため、兄弟は小田原城に幽閉されてしまいました。城主の居ない由良家は、国重の母妙印尼輝子は(77歳)と高齢でしたが一念発起、前田利家の配下として小田原攻略に大きく貢献しました。秀吉の天下統一後、妙印尼の武功が認められ、国繁兄弟は母の功績のお陰で、金山城に代えて牛久領の5400石を秀吉から拝領することになりました。その後、国繁、慶長16年61歳で逝去。牛久領は息子の貞繁に引き継がれましたが、貞繁も病没。貞繁に子がいなかったため由良氏の牛久藩は僅か二代でお家は断絶となりました。この母、妙印尼輝子は戦国時代最強の女傑と言われて、NHKの大河ドラマの最有力候補と言われています。得月院は文禄3年(1594)牛久に移り住んだ妙印尼が開基した寺と言われています。妙印尼輝子の墓は牛久市の文化財になっている「五輪塔」です。

| 17:38 | 投稿者 : ushiku |