東風と春一番の鬩ぎあいの季節

 

晴れていればポカポカ陽気で、「春の海ひねもすのたりのたりかな」の歌にあるように、春のうららかな陽が差し込んで、波面がきらきらと光り輝いている…そんな情景を、まるで一枚の絵画の中に閉じ込めてしまったような俳句といわれています。

ところが、時ならぬ冬型の気圧配置になり、寒の戻りになってきました。菜の花が咲き、梅が咲き、河津桜も見頃を迎えている季節に、寒の戻りとは辛いですね。この時期、東方から吹く風のことを「東風」(こち)と言います。春のやわらかなそよ風というより、まだ寒さが残る早春に吹く風といった感じでしょうか。菅原道真の「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の歌以来、「東風」は春を告げる風として知られるようになりました。「春一番」は南風ですが、「東風」の東風と「春一番」の南風はこの時期のライバルなのかもしれませんね。(写真は新地の東林寺城址一の廓から牛久沼)

| 15:07 | 投稿者 : ushiku |
国道6号牛久土浦バイパス根古屋工区の現況

 

国道6号牛久土浦バイパス、根古屋工区の現在です。右の写真のように橋脚は完成していましたが、現在左の写真のように橋桁の架設が始まりました。ここまでくると、市道城中田宮線の接続部まではあっという間に進行するのではないでしょうか。先日国土交通省の当該工事の説明会が行われましたが、工事の進行に伴い、城中地区の景観が大きく変わっていきそうです。

| 19:13 | 投稿者 : ushiku |
東林寺城址を多くの方に知ってもらいたい

 

豪華な標識を作成している方がいらっしゃいます。Kさん。地元の歴史を多くの方に知ってほしいと、材木を入手して、何の標識もない城址に標識を建てようと奔走しています。この材木は古民家を取り壊した際に出た材木とのこと。太さな枕木ほどの大きさです。ここは、新地町の丘陵の上に残されている「東林寺城址」。天正18年(1590)に豊臣秀吉の天下統一で、小田原北条氏が秀吉の軍勢に落城しました。牛久の岡見氏も小田原方だっため、豊臣方の下妻の多賀谷氏に攻められ牛久城とその支城もすべて落城しました。東林寺城は、敵の城があった八崎城(泊崎)と目と鼻の先、湖上を挟んで1.4kmほどで、北の最前線基地牛久を何とか死守したいと、北条氏の命令で、各地から応援隊が駆け付けました。これらの応援隊を「牛久番」と呼ばれ、東林寺城はその兵隊の駐屯地として機能していました。幅は100mほどでしょうか、奥行きは1km以上もあり、広大な城でした。この城址はその後いくつかの不運があり、戦後に行われた牛久沼の新地周辺にあった、「浮田」を乾田化するための土地改良が行われました。浮田は字の通り、浮いている田(島のような)であったため米の収率も悪く、更には田舟で田植え、稲刈りをするという困難な作業となっていました。この大規模な土地改良工事で、沼の埋め立てに東林寺城址の「一の廓」(江戸以降は「本丸」と呼ぶ)の大部分を削り取って埋め立てに使われてしまいました。その一の廓にあった「五輪塔」が現在の東林寺に移されています。市の文化財に指定されていますが、何方の墓なのかはわかっていません。

| 17:09 | 投稿者 : ushiku |
牛久城址陣屋跡と陣屋門

 

左の写真は牛久城址「陣屋跡」で、撮影した位置(古図から推定)に右の陣屋門がありました。この門は市内某所の個人宅の門です。ネット等に「牛久陣屋跡」という記載があり、このお宅にお邪魔してお話を伺ってきました。写真や住所まで書かれていて、びっくりしていると言うことでした。城中の河童の碑前の牛久陣屋は明治維新後速やかに取り壊されたとされていますが、その時の陣屋門の材料をこちらに移築された可能性があります。ある文書によりますと、明治初期にこのお宅の先代が拝領したものとされています。牛久陣屋は牛久藩二代藩主「山口弘隆」(1万石)が寛文9年(1669)に構築されたものです。その後、文久3年(1863)に改築された陣屋門となっています。陣屋門の屋根は昭和30年代中頃に茅葺きから瓦に葺き替え。左右の塀も新しい材料にしたそうです。昔のままの材料は4本主柱(欅)のみとのことです。門構えは陣屋門の格式を保っていますので、牛久陣屋なのでしょう。さらに、この門が牛久陣屋門とされる所以は地元の方々がこの辺の地名を「陣屋」と言っているそうで、これが大字なのか小字なのかはわかりませんが、ここが本当の陣屋門であった証かもしれません。

| 13:33 | 投稿者 : ushiku |
アヤメ園の管理作業がスタート

 

アヤメ園の作業が始まりました。1月は寒気のため作業を一時休止していましたが、2月から再開。今年は暖冬のためでしょうか、雑草の生育が早く、圃場は緑一色になっています。その細かい草を、株に傷をつけないように一本一本丁寧に抜いていきます。気の遠くなるような作業はこれから6月の開花期に向けて長い管理作業が続きます。そして、猛暑の時期3か月の株分けで、遅れ気味となる除草は12月中旬まで続きます。今年も多くの方々に喜んでいただけるよう地味な作業が続きます。

| 15:50 | 投稿者 : ushiku |
国道6号牛久土浦バイパス城中工区の現況

 

国道6号線牛久土浦バイパス城中工区の現在です。この場所は一昨年発掘調査の行われた「山王前遺跡」です。掘りこまれている場所に縄文遺跡がありました。掘りこまれた一角は2mほど削られ、関東ローム層の下の「常総粘土層」が露出しています。6号は写真右側で、写真右側の高くなっているところのすぐ右端まで、高架橋の橋脚が迫っています。この場所は間もなく右端の土は削られ、根古屋の低地と貫通することになるのでしょう。このバイパス工事は、学園東大通から北側土浦方向の工事が始まりました。

| 16:04 | 投稿者 : ushiku |
今年の葦焼は不発

 

今日は牛久沼に流入する河川、稲荷川、谷田川、東谷田川等のヨシ焼が一斉に行われました。ヨシ原のヨシ焼きは、ヨシに寄生する害虫の駆除、野火による周辺家屋への類焼防止、また貴重な湿地環境の保全などを目的として実施されます。風向きや上昇気流により灰や煙が広範囲に飛散し、洗濯物への付着、庭や屋根への降灰など、近隣住民に迷惑がかかるため、事前に防災行政無線(防災牛久)等で本日の実施の徹底がされました。午前10時から関係者が集まり、枯れたヨシに火をつけましたが、早朝に降った雨で、ヨシは湿っていてうまく着火しません。そこで10時半には、関係者も引き上げ、今回のヨシ焼きは不発となりました。写真は三日月橋のたもとで、この火の手は延焼せず、すぐに消えてしまいました。稲荷川周辺は「虎刈り」状態になっています。

| 17:15 | 投稿者 : ushiku |
国道6号牛久土浦バイパス根古屋(城中)工区の現況・その後

 

国道6号牛久土浦バイパスの建設工事が新しい段階に入りました。現6号の根古屋から伸びていた橋脚は城中の元山王前遺跡手前まで完成し、そこから大手門までは現在工事中です。そして、6号の根古屋から、最初の橋脚までの基礎工事が進められています。この区間は根古屋川流域の軟弱地盤であったため、地盤を固化するための基礎工事が長期間行われていました。それが終わり6号からの接続部分の工事に入っていました。市内でも手付かずの自然が残っていた根古屋川(市内でも一番の清流)とその流域は大きく変わろうとしています。

| 17:25 | 投稿者 : ushiku |
6000年前の遺跡が残る城中

 

ここは牛久市城中町の一角で、写真左側には特養の元気館があります。そして、写真を撮っている場所手前側の右に行くと上り坂で得月院方向に行きます。そして、右手から細い道が見えるかと思いますが、黄色い矢印の道を左に進み、右の背の高い木立を右に回り込むように進むと、谷津頭になります。谷津頭とは「谷津の突き当り」です。その谷津頭の崖の上が縄文遺跡の「城中貝塚」になります。ここは、今から6000年前の縄文時代、氷期から地球は温暖化になり、大陸の氷床が溶けて、海面は4〜5mほど上昇しました。写真の水田は海の底。海水は内陸まで入り込み、牛久沼は当然内海で、茨城県南部は「古鬼怒湾」とか「鬼怒の海」呼ばれる内海となっていました。城中は稲敷台地の縁(南端)にあたるため、台地に住んだ古代人は、崖を降りて、魚や貝を捕獲して食料にしていました。その遺跡となる城中貝塚には、海の貝や土器の破片が今でも散見されます。

| 20:16 | 投稿者 : ushiku |
国道6号牛久土浦バイパス城中工区の現況

 

国道6号牛久土浦バイパス、城中工区の現状です。正面の高くなった奥側が国道6号です。そして正面中段の平坦な部分が一昨年秋に埋蔵文化財の発掘調査が行われた「山王前遺跡」です。間もなく遺跡は削られて消滅します。この遺跡は「整理遺跡」として報告書が残りましたが、現状は写真の通りです。奥側は、橋脚が完成しており、遺跡を削った部分から手前に坂道として進んでくるのか、手前の谷に橋脚を建ててて同じ高度で大手門まで来るのかは定かではありませんが、まるでダム建設のような大きな工事になっています。

| 16:33 | 投稿者 : ushiku |