みんなの力で日本遺産に!

 

シャトーカミヤ本館の入口に、「みんなの力で牛久シャトーを日本遺産に!」という昇り旗が風になびいていました。数年前に明治の産業遺産が世界遺産になりましたが、どういう訳か、シャトーカミヤはもれてしまいました。明治36年に建設された堂々とした明治の産業遺産であったはずです。追加申請も出来なかったのかと思いますが、やっと、取り敢えずの「日本遺産」に申請しようという機運が盛り上がってきました。上野の西洋美術館が世界遺産になる前は台東区あげての取り組みでしたが、牛久もこの機運を更に大きく盛り上げて欲しいものです。そして日本遺産、世界遺産に出来るだけ早く認定されますよう祈るばかりです。

| 20:54 | 投稿者 : ushiku |
稲荷川土地改良で変貌した新地の農業

 

午前6時の稲荷川外堤です。健康を意識する人が行き交う約900mのヘルスロード、稲荷川外堤です。ここはソメイヨシノの桜並木になっていて、牛久最大の桜の名所になっています。現在は蕾は大きく膨らみ、先端が黄色くなって来ましたので開花は近いです。稲荷川外堤と言いますと難しい名前ですが、昭和48年11月16日に稲荷川土地改良区が発足し、その後造営された稲荷川の堤防です。「外堤」ですから、「内堤」はどこかと言いますと、稲荷川の縁にある堤防です。牛久沼に注ぐ当時の稲荷川は、川幅250mもある広大なものでした。写真の道路の左側は全て稲荷川の水面でした。この広大な川で、独特の稲作が行われていました。この地区は新地町で、右側は「東林寺城址」の台地が広がっています。その台地と稲荷川に挟まれた細長い土地に集落(中央の道路の右側)が形成されていましたが、稲作を出来るところがありませんでした。そこで、考えられたのが「ウキタ」(浮田)と言う独特の稲作でした。川の中に島をつくりそこを水田としていたのです。田植えも稲刈りも田舟で行う大変な作業でした。出荷するお米は「ウキタ」でつくり、自分で食べるお米は本当に僅かな土地「ホンチ」(地面に作った水田)で作られたと言うことです。そのウキタは姿を消し、細い稲荷川右岸に広大な「美田」が広がっています。

| 19:54 | 投稿者 : ushiku |
枕草子でも表現された「曙」

 

午前5時15分、東の空がうっすらと色づいてくる時間です。今朝の日の出は5:41ですからまだまだ暗い時間です。この時間を[曙](あけぼの)と表現します。清少納言の「枕草子」では、春の最も美しい時分を「あけぼの」としています。日本には古くから、夜明け前から朝にかけて、美しい言葉が豊富にあります。曙は、夜がほのぼのと明け始める頃。「明けぼの」の転じた言葉でしょうか。夜が明けた薄明かりのころが「東雲」(しののめ)。さまざまな色による幻想的な朝の光景が「朝ぼらけ」。「暁」は、東の空が赤くなる「明時」(あかとき)が転じた言葉です。春の曙は塵と光が混じって、朝空が白っぽく見えることから「白々明け」とも言います。

| 19:28 | 投稿者 : ushiku |
兵どもがゆめの後・東林寺城址

 

稲荷川の左岸から見た東林寺です(赤い三角の屋根)。この丘陵一帯(南北に約900m)が天正18年(1590)に牛久城とともに落城した東林寺城の一角です。この時代は安土桃山時代で、豊臣秀吉の天下統一で、東の雄、小田原北条が目障りな存在でした。天正18年に秀吉は家康を含め、強力な部隊を編成して東国を攻めることになります。秀吉は牛久までは来ず、秀吉方の水戸佐竹氏の旗下であった、下妻の多賀谷氏が牛久に攻勢をかけ、牛久岡見氏の15の支城を次々と落城させ、本城の牛久城に迫ってきました。そして、多賀谷氏は現つくば市の泊崎に「八崎城」を築き、約1.5kmの牛久沼から睨みを利かせていました。その頃、牛久城を北の守りとしていた小田原北条氏は、牛久をなんとしてでも守れと、牛久周辺の北条方の大名に命じ、「牛久番」を編成しました。下総・上総等々から兵を牛久に派遣し、その駐屯地的な城となったのが東林寺城でした。城主には、かの有名な「栗林義長」の名も出てきます。

| 19:47 | 投稿者 : ushiku |
悪戯が続くアヤメ園

 

牛久市観光アヤメ園内で大掛かりな工事が行われています。この工事は、園内の島に渡る橋の工事です。今年の1月、大事な橋が何者かによって破壊されました。欄干はバラバラにされて、池の中に投げ込まれていました。小さな島には来園される方々が休息のため、お弁当を食べる場所として重宝されていました。橋が壊されたから二ヶ月が経過し、復旧工事が始まりました。アヤメ園では、今年1月にもう一件のトラブルがありました。池の中に消化器が放射されで水が真っ白になる事件も有り、相次ぐいたずらに目を光らせています。

| 19:04 | 投稿者 : ushiku |